かぐや姫の横暴

2018年06月01日

『A3!』二次創作小説 密誉 2017年6月25日

「月には帰らない」

二人で海に行く話



 唯一失敗したなと思ったのは、六月の海は案外寒い、ということだった。海水を吸ったパーカーが重く腕に張り付いて鬱陶しい。日が暮れた今、体温は奪われるばかりで、くしゅんと小さくくしゃみをする。御影密はもともと猫背気味の背中をさらに丸めて縮こまった。
「待っていてくれたまえ密くん、もうすぐ火がつくよ」
 先程から拾った使い捨てライターで、これまた拾った流木に火をつけようと奮闘している有栖川誉に密がちらりと視線を寄越すと、予想はついていたけれど木に火がつくどころかライターから火が出る気配すらないので、思わず溜息が漏れた。
「おかしいな......下まで押し込むことができないから、壊れているのかもしれない」
「ちょっと貸して」
「む、密くんは直せるのかね?」
 ライターを受け取ると、やっぱり、と密は思った。安全用のロックが外されていない。ロックを外し、ぐっと押し込むとカチリと音がして火がついた。
「おお! 流石だね密くん」
 目を輝かせた誉にライターを返してやると、「これでやっと暖まれるね」と無邪気に喜んだ。実のところ、彼もまた密と同じくずぶ濡れなのだった。
「......アリスは煙草吸うんじゃなかったの?」
「うむ、葉巻を嗜むことはあるのだけどね。生憎ジッポーしか使ったことがないのだ」
「それ、壊れちゃったの?」
 使い捨てライターを拾う前に、誉が愛用のジッポーで焚き火をしようと奮闘していたのを、密はちゃんと知っていたのだった。
「なに、中身を詰め替えれば直るさ」
「......ごめんアリス」
「いや気にすることはない。それよりも君が無事で良かった」
 本当に。そう言って誉は目を細めた。濡れたボルドーの髪が頰に張り付いていて、きっと高いはずの彼のコートはくたっとしている。やっと大きくなりはじめた焚き火に照らされた誉の姿が、表情が! あんまり綺麗だったから、密は罪悪感で一杯になった。
 だって誉は、船着場から突然海に倒れた密を追ってこうなったのだ。
 ◆
 海に行きたいと言いだしたのは密のほうだった。
 無事に第二回冬組公演が終了し日常に戻りつつあった今日、急に「海に行きたい」とねだられた誉は目を丸くした。
「驚いたな、君から出かけたいと言われるとは」
「うみ、行ったことないなと思ったから」
「ふむ。確かに記憶が戻る手助けになるかもしれないな」
「来てくれる?」
「ああ! そうと決まればすぐに向かおう!」
 こういう時の誉の行動力には目を見張るものがある。部屋で置物となっていたスマートフォンから寮の前にタクシーを呼び出すと、あれよあれよと事は進む。転がりだしたらあとは誉に任せてしまえばいいのだ。二人の日常はいつもこうだった。
 やがてタクシーが到着すると、誉は「海まで」と運転手に告げた。
「一番近い場所で構わないですか?」
 運転手は一体どうしてこんな時間に? と訝しげな目をしながら、それでもその胸中を悟られないようにと振舞っているようだった。演劇を始めて、練習を重ねると人の本音と建前に少し聡くなって、それが少し、寂しい。とはいえ、時期はまだ海に行くには少し早いし、時刻はもう夕方だ。
「ああ、近い場所で頼む。いやなに、夕焼けが見たくなってしまってね」
「それは良いですね。随分ロマンチックだ」
「海に沈んで行く夕焼けを見たら詩興も湧くだろうしね」
「そうですね。丁度今夜は満月だ」
 誉の言い分に納得したようで、運転手と交わされるやり取りは穏やかなものだった。密は二人の会話を小耳に挟みつつ、しばらくは窓の景色をぼんやり眺めていたけれど、次第に眠気が訪れる。密が船を漕いでいることに気がついた誉の着いたら起こすよ、という声に、ん、とだけ返事をして頭を誉の肩に預けた。
「おやすみ密くん」
 もたれた肩が暖かかったので、久々に悪夢を見ないで済むかもな、と思った。
 ◆
 密くん、密くん、と肩を揺らされて意識が浮上する。
「......アリス」
「着いたよ。さあ起きたまえ」
 窓を見ると景色は見慣れた街並みから海へと変わっていた。......これが海か。青くはないな、というのが密の感想だった。どちらかというと、黒っぽい。
 間も無くタクシーは停車した。誉が勘定を終え、二人で車外に足を踏み出すと潮の香りがした。引いては寄せる波が夕日に照らされて、うっすらオレンジ色をしている。
「実に情緒的だ」
 誉はこの景色をいたく気に入ったようで、これは良い詩ができそうだと上機嫌だ。密もこの場所は悪くないなと思った。だってここは時間が止まったみたいだ。
 少し歩こうと誉が言うので、二人は波打ち際を歩いた。柔らかな砂浜に足が沈むのが心地良い。押しては引いてを繰り返す波が細やかな白い泡を作り出し、次の瞬間にはそれを消してしまうのが好きだと密は思った。海は過去から今まで変わらず存在して、この先も変わらない永遠みたいだ。そんな海にも、今しか存在できない小さな小さなあぶくが無数にあることは密の発見だった。
「海は気に入ったかね?」
「うん。マシュマロには負けるけど」
「君は本当にマシュマロが好きだねぇ」
 のんびり歩いていると、いよいよ太陽が沈んでいった。薄暗くなった空に満月が輝き始める。船着場にたどり着いた二人は灯台を背にして座った。
「どうだい? なにか思い出したかね?」
 そう尋ねた誉がふと横を見た時は既に、密の身体がぐらりと傾いた後だった。
「密くん!」
 傾いた密の身体は重力に逆らうことなく、海へと落下していった。ぼちゃん! と非情な音を立て、姿が見えなくなる。夜の海はなんでも飲み込んでしまいそうな色をしていた。
「なんてことだ......!」
 誉は酷く動揺する。当然だ。海に落ちた人の助け方なんて知らないし、そもそも誉は金槌なのだ。一体どうすれば。自分にはどうにもできない。解決できない。密くんは助けられない。そんなこと知っていた。それでも。
「安心したまえ密くん! 今行くからね!」
 正直言って、真っ暗な海に飛び込むのは死ぬほど怖かった。だって、暗い場所は怖いし、金槌だし、誉の体育の成績はいつも一だった! つまるところ飛び込みなんてやった事がないのだ。そんな恐怖を誤魔化すように思い切り息を吸い込んで、誉はコンクリートの壁を蹴った。途端ドボン、と頭まで海水に包み込まれる。コポコポと耳に空気の音がした。学生の頃大嫌いだった音だ。すぐに鼻はツーンと痛み出し、ゴーグル無しで水中で目を開けた事なんてない誉は既にパニック状態だ。
 密くんは。彼を探さなくては。ああでも息ができない、身体が沈む──ごぼ、と空気の塊を吐き出して誉が意識を失いかけたその時、彼の身体はぐっと引き上げられた。
「......ばかなアリス」
 ああ密くんが見える。無事で良かった......。誉は安心してそのまま意識を手放したのだった。
 ◆
 げほげほ! と咳をして誉が目を覚ました。密が「大丈夫......?」と顔を覗き込むと、ぼんやりしていた誉の目が見開かれ、そのまま勢いよく跳ね起きた。
「密くん! 君は大丈夫なのかい!?」
「うん、俺は平気。アリスのおかげ」
「そうなのかい? ......実は気が動転していて、さっき自分が何をして、一体何がどうなったのかあまり覚えていないんだ」
「アリスが飛び込んできて、俺のこと引っ張ってくれたんだよ」
「そうだったのか......いや、やればできるものだな」
 火事場の馬鹿力というやつか、それとも私の秘めたる運動能力が遅れながらにして開花したのか......しばらくの間誉はぶつぶつ呟いていたが、身震いをして「それにしても、寒いな......」と腕をさすった。
「帰ろうにも、これだけ濡れていてはタクシーに乗るのは気がひけるね」
「......歩く?」
「君は良いかもしれないが、私は寮までたどり着く自信が無い」
 一体どうしたものかと誉は思案して、ややあって「そうだ!」と目を輝かせた。
「焚き火をしよう、密くん!」
 ◆
 火にあたっていると次第に体温も戻り、青ざめていた誉の顔にも赤みが戻ってきたので、密はひどく安心した。誉が気を失っている間、もしかしたらこの綺麗な生き物は、このまま弱って死んでしまうんじゃないかと気が気ではなかったのだ。
「それにしても、急に落ちていったから本当に驚いたよ」
「なんか、急に眠くなって」
「ふむ......もしかしたら記憶と関係しているのかもしれないな」
「最近、ちゃんと寝れなかったからそのせいかも」
「また悪夢かい?」
 密がこくりと頷くと、誉は可哀想に、と言って眉を下げた。
「満月が近いと、君はいつもうなされている」
「月は、こわい」
 そうか......と誉は難しい顔をして、やがて「君はかぐや姫なのかもしれないな」と真面目くさった表情で密を見た。
「......なに? 俺が、かぐや姫?」
 ぽかんとした顔をして、密が誉の言葉を反芻すると、誉は「うむ」と大きく首を縦に振った。
「かぐや姫という話は覚えているかい? 竹を割ると、中から美しい赤子が出て来たという昔話だ。成長してかぐや姫と名付けられた彼女は、実は月の住人で、泣く泣く地球から故郷の月へと帰ることになるんだよ」
「俺が、そのかぐや姫なの?」
「君はきっと、一度は月に帰ったけれど、やっぱり地球が恋しくなって姿を変えて現れたかぐや姫なんだよ。月にいた頃の記憶は消したんだ。都合が良いように。満月が恐ろしいのは月に帰りたくないからだ」
 誉のやる事なす事考える事は全部突飛だと知っていた密でも、ここまでの暴投をされると受け止めきれなかった。だってかぐや姫はただの昔話で、誰かが考えた作り話で、それこそ綴のような才能溢れる脚本家がずっと昔に考えて、語り継がれて来た虚構なのだ。それでも大真面目な顔をして推理する誉を見ていると、そうか、もしかしたら、俺はかぐや姫なのか......なんて気がしてきて、いつの間にか「なるほど......」と納得していた。
「じゃあもし、俺の記憶が戻って、月に帰らなくちゃいけなくなって、迎えが来たらどうするの」
「そうだな......記憶が戻った君が帰りたいと望むなら、寂しいが私は君を送り出そう」
「じゃあ、俺が帰りたくないって言ったら?」
 その時はどうするの。ひどく緊張していた。口の中がからからに乾いていて、ああ、そういえば自分は喉が乾いていたのだった、と密は思い出す。
 密と誉の目が合った。ばちん、と音でもしそうなくらいの邂逅。そして誉は自信たっぷりに口角を上げて、ふふん、と得意げにこう言ったのだ。
「もちろん、君とどこまでだって逃げてやるさ」
 ◆
 帰りのタクシーでは、いつもと違って誉のほうが眠っていた。無茶をさせてしまった。運動神経が良いとは思っていなかったけれど、まさか金槌だとは知らなかったのだ。誰に言い訳をしているのか、密は胸中で独り言つ。景色はすっかり暗くなっていて、窓には反射した自分が映っていた。その映り込んだ自分がなんとまあ、満足気な顔をしていたので、密は我ながら捻くれていると自嘲し目を閉じた。
 ──嘘だった。
 記憶を取り戻すために海に行きたいと言ったのも、急に眠くなったから海に落ちたということも。本当は、記憶を取り戻す事が怖くなって、計画的に、密はわざと海に落ちたのだ。
 ◆
 冬組公演の打ち上げでのことだ。密は早々に潰れた誉の隣でサワーをちびちび飲んでいた。
「第二回公演では、兄妹での秘められた恋が真実として明かされるのが本当に切なくて! 東さんの演技、すごく良かったと思います」
 例によって酒が入ると饒舌になり、熱く演劇論を語り出す紬と丞が盛り上がっていた。
「ありがとう、紬。ふふ、やっぱり全てを投げ出せるような恋って、良いよね」
 ルシアンを指でかき混ぜながら、東は微笑んだ。ジョッキを片手に丞が同調する。
「第一回公演でも、ミカエルが命に変えてまで恋した相手へ身を捧げるのは切ないが良かった」
「丞がそういう事言うのはなんか意外だなぁ」
「......どういう意味だ」
 言い合っている紬と丞を諌める事はせず、東はかき混ぜたルシアンを一口飲んで、うん美味しい、と呟いてから「密にも、今は忘れちゃってるだけで、実はいるのかもしれないね」と言った。
「......なにが?」
「全てを投げ出せちゃうくらいに愛している相手」
 ◆
 それ以来、密は記憶を取り戻す事が怖くなった。もし、あくまでもしもの話だけれど──記憶を失う前の自分に全てを投げ出せる相手がいたとしたら。記憶を取り戻したらどうなってしまうのかが怖かった。その人のために、今の居場所を、劇団を、──自分の事を思っていたよりも好きだと言ってくれたうるさい隣人を。投げ出してしまうのだろうか。
 誉に海に行きたいとねだったのは、初めから試してやるつもりだったからだ。ある日自分がふらりといなくなるとして、例えばその場所が海だったとして。自分の事を思ったより好きでいてくれるらしいこの男はどんな反応をするのか。ただの八つ当たりみたいなものだった。それもひどく幼稚な。......まさか泳げないくせに海に飛び込むとは予想できなかった。
 焚き火にあたりながら、マシュマロは炙ると美味しいと聞いたから今度一緒にやろう、と呑気に笑う誉を見ていたら、なんだか悩んでいたことが馬鹿みたいに思えてきて、記憶が戻ったとしても何もかもうまくいく気がして、聞こえないようにありがとう、なんて言ってみたりして、笑った。
 二人で月から逃げるのもいいけれど、逆にさらってやるのもいいかもしれない。その時は、どうか自分のために全てを投げ出してはくれないだろうか。なんたって密はかぐや姫なのだから、横暴だって許されるだろう。お姫様は往々にして勝手気儘の象徴なのだ。
 肩に誉の暖かさと重みを感じながら、忍び寄っていた心地良い微睡みに従うことにした。
 ああ、でも、今はどうかこのままで。

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