トロンプ・ルイユ
『A3!』二次創作小説 密誉 2017年10月19日
「じきに世界は美しくなる」
二人が人の消えた世界を旅している話
「しにたい」
聞き間違いかと思った。麗らかな日差しと、美しい自然とが見事に調和した景色には、まるで似合わない言葉だったからだ。丁度ワタシたちが目指していた湖に辿り着いた時のことであった。どうか聞き間違いであってほしいと思いながら、ワタシは芝生に座った身体をそのままに、首だけを動かして、隣で膝を抱えている密くんを見た。旅に出てからもう随分と経つけれど、密くんがこんな風に弱音を吐くのは初めてのことだった。
「なにか、あったのかい?」
ワタシは努めて、普段と変わらぬ調子で尋ねた。
「......ううん、別に」
彼はゆるゆると首を振って、曖昧に笑って見せた。すぐに、強がりだ、と思った。人の心の機敏に疎いといえど、これくらいは分かる。密くんは、嘘をついた。ワタシを心配させないように、と気を使った彼なりの優しさだろう。一体彼の心を蝕むものが何なのか、それは想像できないけれど、どうやら密くんは相当参ってしまっているようだった。
湖の水面がきらきらと輝いている。青空と相まって、非常に美しい光景だった。このあたりは別荘地としても有名で、ここに来るまでにも、多くの豪華な建物を目にしてきた。
そんな景色とは正反対に、密くんは今、間違いなく「死にたい」と口にしたのだ。ワタシはなんとか密くんを励ましたい思いでいっぱいだった。
「密くんは、この世界をどう思う?」
密くんはますます縮こまりながら、小さな声で「地獄」と答えた。
「密くんは、六道輪廻を知っているかい?」
ワタシが尋ねると、密くんは首を傾げた。知らない、と言うので、ワタシは彼を元気付けるべく説明を開始する。
「ワタシたちのいるこの世界はね、人間道というんだ。輪廻転生という仏教の考え方だ。ワタシたちは、六道と呼ばれる人間道や、地獄道、そんな道からの抜け出すことを目的としている」
「ふうん」
「人間道を地獄のようなものだと感じるキミの考えも、一理あるとは思うがね」
そう付け足すと、密くんは迷うように視線を彷徨わせて、それからおずおずと口を開いた。
「どうして戦争をするのか、オレにはわかんない。何もかも、めちゃくちゃになっちゃうのに。勝ちとか負けとか、そんなの関係なしに、町が壊れて、人が死んでいく」
密くんは箍が外れたように、ぽろぽろと涙を零しながら語る。
「地獄って、炎に包まれた場所なんでしょ。でも、ここだってそんなに変わらない。人が人を殺すために、町を焼いて、それで、なにもかも無くなって! ......地獄だ、こんなの」
なんて痛ましい独白だろう。ワタシは彼の震える肩を引き寄せて、静かに背を撫でた。彼はワタシの知らないところで、酷く恐ろしい目にあったのだろうな、と思った。失っていた記憶の一部を思い出したのかもしれない。
「ああ、密くん。可哀想に。なにか恐ろしい目にあったのだね」
ワタシは密くんの髪に手を入れてといた。彼の長い前髪を、さらり、横に流そうとしたものの、彼が首を振ったので叶わなかった。
「しかしね、そんな時は視点を変えてみると良いのだ。ワタシも辛い時は、そうやって乗り越えてきたのだよ」
「どんなふうに?」
「例えば、そうだな。一般的に孤独は寂しいだけの消極的なものだとされがちだろう? けれど、見方を変えてみれば、それは己との対話の十分な確保であり、それは時に芸術へと昇華するものだ」
ワタシは学生時代を思い出しながら密くんに語って聞かせる。
「どんな出来事にだって、悪い面があれば良い面だってあるということだ。光の当て方の問題だよ。影が生まれる方向には、目を瞑って仕舞えば良い」
密くんは眉を下げながらワタシを見て、じゃあこの世界の光とはどこにあるのだろう、と無言で問いかけて来る。乾いた風に乗って、細やかな灰が飛んできた。少し口に入ってしまったのかもしれない、ワタシは苦さに顔を顰めそうになり、しかしすぐに笑顔を作る。
「話を戻そうか。人間道についてだ。キミは地獄以上に、この人間道を酷いものだと捉えているようだが、そんなことはないのだ。どうしてそう言い切ることができるか、分かるかい?」
わからない、と密くんは首を振った。ふふん、そう言うだろうと思っていた。ワタシは得意な気持ちで、密くんの唇に人差し指を当てた。
「人間道はね、唯一救われる可能性のある道なんだ。他の道──天道という享楽の道であったとしても──煩悩から解き放たれることはなく、救われることはないのだ」
「この世界は違うの?」
「ああ。人間道は唯一自力で仏に出会うことができるとされている。救いのある道なんだ。苦しみは多いかもしれないが、そのぶん楽しみがあり、救いがある。出会いは苦をもたらすこともあるが、悦楽でもあるのだ」
密くんは形式的に頷いた。納得はしていない、とその顔にありありと書いてあるので、ワタシは少し笑ってしまった。笑われている、と気がついた密くんはジトリとした視線を寄越し、「屁理屈だ」と呟いた。
「屁理屈か。そうかもしれないね。あくまでこれは仏教的な観点での話だ」
「仏教だとか、なんだとか。そういうの、オレにはわかんない。地獄だよ、この世界は」
密くんはどこからか石を手に掴んで、座ったまま湖に向かって投げた。ドボン、と存外粘性の高い音を立てて、石の姿は見えなくなる。密くんは石の最期を見届けると、すぐにまた、隈の目立つ真っ白な顔を膝に埋めた。野外だろうが御構い無しに眠ってしまう彼からは想像がつかないが、最近眠れていないようだ。長旅だというのに、疲れは溜まるばかりだろう。
「......もっと酷い屁理屈を聞いてくれるかい?」
「なに。今更でしょ」
はやく、と急かす密くんに気恥ずかしさを覚えたけれど、言葉にしなければ伝わらない思いもある、とワタシは覚悟を決めた。
「ワタシにとってね、救いはキミだったんだよ。仏でもなんでもない、キミがワタシを救ってくれたんだ。だから、ワタシはこの人間道に生まれて良かった。この世界が、好きなんだ。キミと出会えたこの世界が」
ワタシがそう言うと、密くんは「屁理屈」とすっかり顔を膝に埋めてしまった。
「ひどい屁理屈。アリスって、ほんと馬鹿」
ちらりと見えた彼の耳が赤いので、「密くん、もしかして照れているのかい?」と尋ねると、「うるさい」と突っぱねられてしまった。
「次の場所に行こう」
しばらく固まったままだった密くんは突如として立ち上がり、そう宣言した。まだここに来てほとんど時間も経っていないというのに、もう移動するらしい。
「もう歩くのかい? ここまで来るので、すっかり疲れてしまったよ」
ワタシは重い腰を上げながら、ふと重要な何かを忘れていることに気がついた。
「そういえば、ワタシたちはどうして旅をしているんだろう?」
湖を見つめて立ちすくんでいた密くんはゆっくりと振り向いて、言った。
「地獄で生きるためだよ」
◆
世界がすっかり終わってしまった。
いや、正しく言うなら、オレの周辺の何もかもが壊れてしまった。もしかしたら、この町の外は無事かもしれない。もしかしたらこの県の外は無事かもしれない。もしかしたら、この国の外は。もしかしたら、もしかしたら。
そうやって、祈るように地獄を歩き続けた。
その日はたまたま、アリスと一緒に海に来ていた。
なんでもない、ただの気まぐれだったのだ。ただなんとなく、海が見たいと思った。たまたま朝早くに目が覚めたから? それとも、なんらかの予感があったから?今となってはもうわからない。ただ、オレとアリスはたまたま始発の電車に乗って、たまたま朝日が昇る海を見ていた。
「こんなに美しい景色は詩興が湧いて来そうだ」
アリスは嬉々として白み始めた空を見ていた。オレも、ただなんとなくの行動だったけれど、こうして来て良かった、と思っていた。
──果たしてこの選択が正解だったのだろうか。
「あ」
アリスが急に間抜けな声を出すものだから、オレは「どうしたの」と尋ねた。
「密くん、あれはなんだろう」
アリスが指差す方を見ると、朝焼けの空に何か黒い影が飛んでいた。鳥にしては大きすぎる。それに、羽ばたきもせずに空を滑っていくようだ。
「飛行機かな? 変わった形をしているね」
アリスは首を傾げて、頭上を横切り町に向かって飛んでいくそれを目で追った。オレも不思議な飛行機だな、と思った。一瞬で小さくなってしまった影は、ありえないほどの速度で飛んでいるようだった。
「未確認飛行物体かな。もしかして、やかんだったりして」
はは、とアリスが冗談を言って笑っているうちに、点ほどの大きさになった影から何かが落ちた。陽を受けてぴかぴかと黒光りしながら一直線、地面に吸い込まれるようだ。
それを見て、ほとんどオレは反射的に、アリスの腕を引っ掴んで海に飛び込んだ。何か考えている余裕はなかった。本能がこうしろと叫んだのだ。
オレたちが飛び込んですぐに、どおん! とものすごい音がして、海は大きく揺れた。激しい波にもみくちゃにされながら、オレはアリスの腕を離さないよう必死だった。
やっと波が収まり、噎せながら水面から顔を出すと、そこは既に全てが終わったあとだった。アリスも海から顔を出して、呆然と町だったものを見ていた。
「戦争でも始まったのだろうか」
掠れた声でアリスが言った。全ての情報機器は途絶えた。真実を知るためには、自分たちの目で確かめる他ない。
もしかしたら、寮の誰かが無事かもしれない。そんな期待を胸に海からとぼとぼと歩き始めた。
「新型の核兵器だとか、そんなものがこの国に落とされて、それで、こうなったのだろうか」
そこら中で炎が燻っていた。ぱちぱちと言う音を聞きながら、オレ達は重い足を進める。
「わかんない。戦争って、そんなに急に起こるものなの」
「ワタシにも分からない。ただ、起こる可能性はある。些細なきっかけでね。この世界はいつ終わったっておかしくない程、不安定なものだ」
もはや道と呼ぶことのできるものはなく、ただ太陽の示す方角にしたがって、天鵞絨を目指す。行けども行けども灰になった建物の残骸が転がっているばかりだった。人の骨さえ見つからない。──全て溶けてしまったのだ。考えたくないことだけれど。
日が沈みかけた頃くらいに、寮があったと思われる場所に到着した。そこには何も無かったから、本当にかつて劇団があった場所なのか、確かめる術はなかった。アリスは膝から崩れ落ちて、声をあげることさえできず、ただ静かに涙を流していた。オレは現実を受け止められずに、はやくこの悪い夢が覚めたらいいのに、と願った。
悪い夢は覚めることなく、再び朝日は昇った。オレとアリスは相談して、ひとまずこの町の外を目指すことにした。もしかしたら、まだこの町の外は無事かもしれない。
「密くんがいてくれれば、こんな町でも美しく思えるね」
アリスは何度も何度も、そう口にして笑った。自分に言い聞かせているようだった。オレは肯定することも否定することもできずに、曖昧に頷くばかりだった。
そうして何日かが経って、アリスの様子がおかしくなった。
「流石都会は立派なビルが沢山あるね」
初めは崩れたビルの残骸を言っているのかと思った。しかし、「こんな都会に、どうして人がいないのだろう」と真剣に悩んでいるので、オレはぞっとした。
「アリス、ねえ」
「ん? なんだい、密くん」
「ここ、どこだか分かる?」
オレは焦土と化したビル街を踏みしめて尋ねた。
「ううん、渋谷だとか......新宿あたりじゃないかな? これだけ立派にビルが建っているわけだし。あまり高い物に囲まれると、くらくらしてしまうね」
悲しいほどここには何もなかった。ビルどころか、建物の一つだって。高いビルに覆われていた空は、いっそ嫌味な程に高く突き抜けている。
◆
ようやくたどり着いた湖の水は濁りきっていて、土やら灰やら、いろんな物を含んでいるからどろどろしていた。かつて美しい避暑地として愛された森は死んでいた。都市から離れた場所ならどうだろう、という希望も絶たれ、オレはもう、どうすればいいのかわからなくなってしまった。
いっそ死んでしまったほうが楽だと思った。こんな世界をさ迷いつづけるくらいなら、ここで楽に逝きたいと思った。地獄よりも酷い地獄だと思う。こんな世界は。オレは座り込んでしまって、もう一歩だって動けそうになかった。こんな町から離れた場所でさえ、灰が広がっているのだ。もう世界には何も残っていないのだろう。
死にたいと呟いてみた。
ここでアリスがどんな風に反応するのか、それで決めようと思った。正気を失ってしまったアリスは幸せそうで、だからこそ痛々しくて、目も当てられない。すっかり美しさを失った世界に新しく息吹を吹き込んで、アリスの中の世界は歪な形で保たれている。そのアリスに、少しだけ。現実を思い出させるような言葉を与えてみたら、どうなるのだろう。きっと発狂してしまうに違いないと思っていた。
「この世界が、好きなんだ。キミと出会えたこの世界が」
けれど、アリスは下手くそにオレを励まして、この世界に生きていて、オレと出会うことができて良かったと、もはや真実を写さない瞳で笑う。いっそ、出会わなければ。アリスに出会わなければ、ここですんなり死んでしまうことだってできただろうに。
出会いは苦しみであり、悦楽である。何事にも良い面と悪い面があるらしい。光の当て方の問題だとアリスは言った。影には目を瞑ってしまえばいい。アリスにはもう、この世界の影が見えていない。美しいものを愛して、美しいものだけを見て、アリスは生きているのだ。
アリスのアドバイスに則って考えるに、光の当て方で良い面に注目することが大切なのだ。じゃあ、この世界の良いところとは一体なんだろう。オレは膝に顔を埋めて考えた。
きっと、アリスが生きているということで、アリスと一緒に生き残った唯一がオレだということだ。
アリスにとってオレが救いだったように、オレにとってもアリスは救いだった。今はただ、世界で二人きりになることができたのだと思えば、それで良いのかもしれない。そう思い込むべきなのかもしれない。嘘だって貫き通せば真実だろう。
この世界に、この地獄にアリスがいる。それだけで十分に幸せな事じゃないか。
「次の場所に行こう」
そう言って立ち上がると、心なしか湖の水は澄んだものに見えた。