博愛主義者は何も知らない

2018年06月01日

『A3!』二次創作小説 密誉 2017年8月22日

「貴方は今日も美しいまま、残酷に微笑むのだ」

密くんと人魚の誉さんの話



「おや、密くん。今日も来てくれたんだね」
 顔を綻ばせ、誉が水面から頭を出した。そうすると水が揺れて、透明なアクリル板に囲まれた小さな海に波が生まれる。水槽の上に作られた金属製の足場から、密は誉を見て、やがて座り込んだ。餌を与える為である。
「ん」
 肩に掛けていたショルダーバッグから、密は人参を一本取り出して、誉に手渡した。誉は嬉々としてそれを受け取ると、先端からぽりぽりと齧り始める。人参が好物なのだ、と聞いてからというもの、密は誉の餌を勝手に切り替えてしまったのだ。けれど、多分健康には良くないのだろう。それまで与えられていた餌は、きっと誉に必要な栄養素だけをしっかり含んでいたはずだ。それ以上でもそれ以下でもない、必要なものだけを。それまで誉が職員から与えられていたものは、他の水槽に泳ぐ魚達と同じように、顆粒状で──端的に言ってしまえば、金魚の餌と相違なかったのである。
 □
 誉は人魚だ。多くの人魚がそうであるように、美しい顔立ちと、美しい声とを持っていた。
 人魚の大半は、かつて人間と恋に落ち、結果泡となってしまった姫がいた、と教育を徹底されており、人間に関わらぬよう海底でひっそりと暮らしていた。
 しかし、誉は奇特な人魚だった。
 人間を避けるどころか、むしろ人間を愛していた。周囲の止める声をものともせず、代償無しに足を手に入れられる薬が開発されたと聞くやいなや、喜び勇んで海を出た。その頃には誉の物好きを止めていた者達も、呆れて匙を投げていたのだった。
 そうして、誉はヒレを足に変え、時折人間界にやって来ては書物を読み漁った。誉は人間界の中でも、とりわけ文学というものを愛していたのだ。
 海から陸にやって来ては、薬の効果が切れる二十四時間後に帰る。そんな誉の幸せな生活が半年程続いた頃である。
 いつものように、誉は書店に足を止めた。今日はどの本を読もうか、と考えて、何となく手に取った詩集──それが誉の運命を変えた。良い意味でも、悪い意味でも。
 著者シェイクスピア、と記された本に、誉は衝撃を受けた。なんとまあ、文学とはかくも美しいものなのか。一つ一つの言葉が、圧倒的な力を持って、繊細に、かつ大胆に、質量を持って心に迫ってくる。気がつけば、誉は本を持ったまま立ち竦み、ぽろぽろと涙を零していた。
 けれど、感動のあまり誉はすっかり失念していたのだ。
 人魚の涙は、真珠だ。
 コト、と音を立てて地面に落ちたものを、書店の客達は見逃さなかった。伝説とされていた人魚が、今、目の前に。あっという間に誉は捕えられた。あれよあれよと話は広まり、客から店主へ、店主から地主へ、人間の元を転々とし、結局誉は海洋生物研究所に落ち着くこととなった。一応人魚も新種の生物に含まれるわけだし、まずは知ることが人類の進歩に役立つだろう、という研究所所長の鶴の一声によって。
 □
「それにしても、」
 誉は人参を齧りながら、アクリル板越しに研究所内をきょろきょろと見回した。
「今日も密くん以外は誰もいないのだね」
 ちょっと心配になってしまうよ、と眉を下げ、趣味だという詩の制作に行き詰まった時のように、水中でくるりと一回転した。せいぜい三、四メートル程の深さしかない水槽では、それはとても窮屈に見える。密は罪悪感で一杯になって、「アリスは知らないだろうけど、人間の世界にもいろいろある」と答えた。すると誉は神妙に、そうなのか、と頷き、アクリル板に手をつけて、「何事もないと良いねぇ」と呟いた。
「アリスってほんと、バカ」
「なんだって! ワタシは人魚の中でも、とりわけ教養を持っている。だからこそ、人間界を愛しているのだ。人間は皆優しいと、ワタシはちゃんと知っているんだよ。現に殺されることなく、生きているではないか」
 誉は水槽を泳ぎ回って、「ほら、ワタシはこんなにも元気だ!」と笑った。子供のような笑みだ、と思う。だって、誉は何も知らない。密のことも、自分が陥っていた危機も。
 誉は密をこの研究所の職員の一人だと思い込んでいるようだけれど、密は研究所とは何ら関係ない。実は、ただの侵入者だ。
 数日前、密が目を覚まして、初めて見たのはこの研究所だった。夏盛りだ、熱中症か何かで倒れたのだろうな、と立ち上がりかけ、はた、と動きを止めた。一体どうしてこんな場所に? そもそも、自分は一体何者で、何をしていたのだろう。思い出せるものなんて自分の名前くらいで、困り果てて密は研究所に足を踏み入れた。この暑さでは本当に死んでしまうだろうし、とにかく、密は何らかの助けを必要としていたのだ。
「すみません」
 サビの目立つ研究所のドアを押し、受付に声をかけてみても返事がない。密は困ってしまって、悪いとは思いつつ、受付を通り過ぎ、どんどんと奥に進んでいった。
 すると突き当たりに、一つ重そうな鉄のドアが現れた。一瞬ためらった後、密はドアを開けた。誰かがいるとしたら、絶対にここだろう。
「すみません、あの」
 ドアを開けた先の部屋は薄暗く、水槽がいたる所に置かれていた。こぽこぽと空気が水中を昇る音が聞こえる。色鮮やかな魚から、ずんぐりとして無愛想な大きな魚まで、様々な種類の魚が泳いでいる。
 ここにも人はいないのか、と密が肩を落とした直後だった。
「おや、誰かいるのかい」
 人だ。人の声がする。密は声の元へ急いで向かった。しかし、やはり人はいない。水槽の中に魚がいるばかりだ。幻聴だったのだろうか。密がきょろきょろとあたりを見渡すと、「こっちだ、こっち」と一際大きな水槽から声が聞こえた。
「キミ、ここの新入りさんかい?」
 水槽の中で、水面から顔を出して、男はこてん、と首を傾げた。密は呆然として、声も出せなかった。美しい顔に、美しい声。すらりとした体躯だが、しかし足がない。代わりに腰から下には紅く輝くヒレがついている。
 人魚だ。
 密はしばらく固まって、それからやっとの思いで、「あなた、だれ」と尋ねた。
「ん? ワタシかい? ワタシは有栖川誉という。見ての通り人魚だ。先日ここに連れてこられた。......いきなりで悪いんだが、ワタシをここから連れ出してはくれないかい? キミ以外の人とは、どうも言葉が通じないらしい」
 誉は、そろそろ海に帰らないといけない時期なんだ、と言った。困り果てているようだった。密はひとまず、「わかった、わかったけど、ちょっと待って」と言い残し再び重いドアを開けて、部屋を出た。まずは自分が正気かどうか確かめよう、と思って、途中見つけたトイレの個室に篭り、頭を抱える。あれは現実? それとも、幻?
 密がぐるぐると思考を巡らせていると、ガヤガヤと人の声がした。どうやら研究所の職員たちがどこかから帰ってきたらしい。急いでトイレを出て助けを求めようとして、しかし密は、個室の鍵を開ける手を止めた。会話の内容が、先程の人魚──有栖川誉についてだったからだ。
「それで所長、結局あの人魚、どうするんですか? うるさく話しかけてくる度無視するようにはしてるんですが、扱いに困ります。アレはいい加減、国に報告するべきでは......」
 部下と思われる者の声が聞こえる。他にも声がするから、五、六人は一緒にいそうだ。
「いや君、わかっていないな。国に報告でもしてみろ。あっという間に取り上げられて、それこそ、この研究所はおしまいだ。アレはこの研究所を救う可能性のある唯一の光だ。みすみす取り逃すわけにはいかない」
 どうやら、研究所にも事情があるようだ。密が聞き耳をたてていると、面白い程に所長はべらべらと喋った。相当ストレスが溜まっているらしい。
「アレをうまく活用すれば、この潰れかかった研究所だって再興できる。使い方はよく考えねばならん」
「しかし、どうやって......?」
「知っているだろう、人魚の涙は真珠だ。それにあの鱗を見たか。あれは高く売れるぞ、君。何より、人魚の肉は不老不死の力が手に入ると聞く」
 なんだか会話が不穏な方向になってきた。もしかしたら、これはまずい会話を聞いてしまったのではないか、と密が気がついたところでもう遅い。所長は喋る、喋る!
「いいか、死なない程度に、が大切だ。死なない程度に痛めつけて、真珠と鱗と、その肉を裏の市場で売り捌こう。大丈夫、国にはまだ知られていないが、この辺り一帯では人魚が現れたともっぱらの噂。高く売れるはずだ」
 その際にどうせなら人魚の住む海の場所を吐かせるのもいいかもしれん、と所長は付け加えた。
 密はその時、自分がズボンのポケットに、何かを忍ばせていることに気がついた。
 □
「密くん! もし良かったら、シェイクスピアの作品をまた持ってきてはくれないか。この姿では書物を読むのに難儀するから、キミが読んでくれると、それはとても嬉しいのだが......」
「いいよ、わかった。読んであげる」
 本当かい! と目を輝かせて、誉は尾を思いきり振り上げた。その勢いで、ばしゃ、と音を立て水面が少し跳ねる。
 まずは己の心配をしたらどうなんだ、と密は叫び出してしまいそうだった。そんな胸中を悟られぬよう、ぐっと堪えて、「うん」と頷く。
 こんな程度のことで、誉は勢いよく水槽の中を泳ぎ回って喜ぶのだ。誉は純粋すぎた。あまりにも、人を信じて生きている。
 本当は、海に帰してやるのが一番だと悟っていながら、密はそれをしてやらなかった。そして多分、これからも誉をここに縛り続けるのだろう。結局自分も、あの所長達と何も変わらない。密は自嘲の笑みを浮かべた。しかし誉は、密が自分に微笑んでくれたと思い込んで、また水を跳ね上げて喜んだ。密は罪悪感で一杯になった!
 ──自分だけのものにしたかったのだ。この美しい生き物を。
「キミは笑っていた方が素敵だよ!」
「そう」
「ああ、また仏頂面に......」
 そう言いながらも、誉はとても楽しそうだった。しかしふと、鉄の重いドアを見て、「あとはここの人達の無事さえ確認できたら」と目を伏せた。
「大丈夫だよ」
 密は震えそうな声で告げた。
 ......何が大丈夫なものか!
 数日前、密はこの海洋生物研究所の職員を、一人残らず殺したのだ。

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