可燃性の街

2018年06月01日

『A3!』二次創作小説 密誉 2018年3月6日

「脆きものよ、汝の名は我等なり」

スラム育ちの密くんと貴族の誉さんの話



 また来た。
 密はうんざり、といった表情を見せた。遠くから鼻歌が聴こえてくる。十中八九、あの男に違いなかった。
 捕まったらきっと面倒だ。前だって、散々よく分からない詩を披露された。人形のような顔をしているくせに、口だけはペラペラとよく回る、妙な男なのだ。
 さっさと退散しよう。そう思って、密はゴミの山から立ち上がった。今日の収穫はまだなかったけれど、仕方ない。あの男が去ってから、金になりそうな物を探せば良いのだ。幸いにして時間はいくらでもある。
 ところが、ガラガラ! という音と、ぎにゃあ! という素っ頓狂な叫び声がしたので、密はビクリと動きを止めた。カラカラ、と空き缶が転がっていく音が響いた。それから、密ははぁ、と溜息をつく。
「ほんとさぁ」
 文句を言いながら、密は音のした方へ歩き始めた。革靴と長い足が見える。
「アリスってうるさい」
 ゴミで作られた不安定な足場に耐えられなかったのだろう。有栖川誉は上等な服を台無しにしてひっくり返っていた。
 ◇
 密の記憶は、自身が焼け跡の中で目を覚ましたところから始まる。爆撃で吹っ飛んだ何かの破片が頭に当たったのだろうか。鋭い痛みを感じて右目の上を押さえると、ドロリ、とした血が流れていた。
 密は自身の右目が使い物にならない事と、名前以外の何もかもを忘れていることに気がついた。戦争は多くの人命と一緒に、密の記憶までもを奪って行ったようだった。
 記憶が無いといえど、人間は生きていかなければならない。生きる為には食料が必要だったし、その食料を手に入れる為には金が必要だった。
 この身一つが財産の密だ。金など持っている筈もなかった。焼け跡の中で、食べられそうなものを見つけては口にして、生きているんだか、死んでいるんだか、よく分からない生活を続けた。
 やがて少しずつ街の復興が始まると、密はいわゆる汚れ仕事で食いつなぐようになっていった。
 密にはセンスがあった! 雇い主に、「スパイでもやっていたのか」と疑われる程だった。けれども、密には記憶が無いので、「そうかも」と答えることしかできないのだった。
 仕事を始めると、不定期だったが、少なくは無い金が手に入るようになった。その金で住む場所を改めれば良いのに、密は崩れた街で浮浪者のような生活を続けた。仕事が無い日は、焼け焦げたレンガの上で一日中眠る。下手に動き回ると、無駄に体力を消費するし、無駄に腹が減るからだ。今更人間らしい生活を送るような気分にもなれなかった。それ以上に、密は自身の仕事に対して、それなりの負い目を感じていた。
 手に入れた金は、時々街に出て買い物をする時に使った。密が金を使うのは、必ず異国の砂糖菓子と決まっていた。戦後だからかパンも高いが、砂糖菓子はそれ以上に高く貴重だった。
 にもかかわらず、密は頑なに、マシュマロという菓子に拘った。依頼人の家で出されたものを食べてからというもの、依存症にでもなったかのように、身体がマシュマロを欲するようになったのだ。巷では、「ヤク中だ」なんて噂され、原因とされたマシュマロは恐れられるようになった。密は単純に、とてつもなくマシュマロの味を気に入っただけだった。
 ところで冒頭の有栖川誉という男は、この辺りで有名な、あの有栖川家の一人息子だ。
 有栖川家というのは、この混乱の世の中で唯一、貴族らしい生活を続けている貴族であった。
 戦争が終わってからというもの、この国は荒れ果てている。多くの貴族は没落し、それまでの栄華が嘘のような状態に陥っているのだった。そんな中で、有栖川家はこれまで通りの優雅さと、気品とを保っているらしい。
 らしい、というのは、あくまで密が人づてにそう聞いたからだ。そもそも密は、戦前の街の様子すら知らない。ましてや貴族の事情なんて知るはずもなかった。密は記憶喪失なのだ。
 真の貴族というのは気まぐれで、変なところで優しさを発揮するようだった。というのも、密が誉と出会ったのは、誉がスラムにやって来てマシュマロを配っていたからなのだ。
 ◇
「さぁ諸君、良ければ食べたまえ!」
 壊れた街に住み着いているのは密だけではない。行き場の無い人々が集まって、ゴミで作られた街で、細々と暮らしている。皆生きる為に必死だった。無法地帯と化すのは目に見えている。だから、常識を持った人間ならば、まずここには近づかない。金銭目的に殺される可能性が非常に高いからだ。
 ところが有栖川誉は常識を持ち合わせていないらしかった。
 街から一人でのこのこやって来て、警戒する民衆を相手に、これを食べろ、とマシュマロを配り始めたのだ。
 一体何故なのか。密には到底理解できなかった。善意からの行為ならば、普通パンを配るべきではないのか。砂糖菓子をニコニコと配る小綺麗な男は、葱を背負ってやって来た鴨によく似ている。
 初めは警戒して近寄ろうともしなかったスラムの人間達だったが、すぐにこいつはいい餌だ、と気がついたらしい。目をぎらぎらと光らせて、少しずつ呑気な貴族に近づき始めた。
 馬鹿なやつだ、と密は思った。変に優しくするくらいなら、初めから何も見なかったことにして、綺麗な自宅でのほほんと暮らしていれば良いのに。きっと貧しい者にも優しい自分に酔っているだけだ。本人はそのことにさえ気がついていないのだろうから、一層哀れに思われた。
 じりじりと囲まれ始めた貴族に一瞥を寄越し、密は立ち去ろうとする。面倒事は嫌いだった。群衆に背を向けて、再びやって来た道を辿れば良い。そうすれば、あとはいつも通りゴミの中で眠って、時々舞い込む依頼を待つだけだ。
 しかし密の足は頑なだった。
 その場に根が生えたように、密は立ち竦んでいた。加えて密の一つしかない眼は、じぃ、と貴族が手にした籠に吸い込まれている。籠からちらりと覗いた瓶の中に、白色の砂糖菓子が見えたのだ。
 貴族がどうなろうと自業自得と言える。だが、マシュマロに罪はない。あのままにしておけば、マシュマロはきっと、毒を警戒されて捨てられてしまう。籠一杯のマシュマロを無駄にすることほど、重大な罪はあるだろうか!
 ......それに、あの呑気な男を見殺しにしたら、なんだか目覚めが悪い気がする。
 ついに密は大きな一歩を踏み出した。
 貴族を取り囲む群衆を掻き分けて、密は砂糖菓子を目指して進む。おい、だのなんだの、声をかけられた気がするが、そんなことは気にしていられなかった。
「おや、キミはこれを貰ってくれるのかい?」
 貴族はニッコリ微笑んだ。密はその問いに答えることはせず、その足を掬い上げる。
「うわっ」
 貴族はあっさりと体勢を崩した。いいぞ! という民衆のざわめきにも一切の反応を寄こさず、密は男を抱え上げる。自分よりも背が高いから、抱え上げてみて少しよろけた。困惑する第三者をよそに、密はグッ、と脚に力を込めた。そして、風よりも早く駆け抜ける!
 背後から聞こえてくる文句の嵐が小さくなってやっと、密は小脇に抱えた貴族のことを思い出した。配慮の欠片も無いような運搬方法だったけれど、緊急時なのだから仕方ない。それに密が守りたいのはあくまでマシュマロの方なのだ。あのまま行けば命を失っていたであろう見ず知らずの貴族が、どうなろうが知ったことでは無いのである。
 それでも密は結構真面目だ。それなりの罪悪感を覚えて、「......大丈夫?」と貴族に声をかけた。
「急に何をするんだね! びっくりするじゃないか!」
 あまりの声の大きさに、密は抱えていた男を地面に落とした。ぐえ、とまた変な声を上げて貴族は衝撃に悶絶している。一つ一つの動作が大袈裟なので、貴族というより道化のように思えた。密は本当に貴族なのだろうか、と男を観察する。
「......死ぬよりはマシでしょ」
 密が意識的に冷たい目でそう言うと、男はきょとん、とした表情を見せた。
 やっぱり、何も分かっていない。マシュマロの為とは言えど、この貴族を助けてしまった事を、密は若干後悔し始めていた。
「キミはワタシを助けてくれたのかい?」
「結果的には」
 その砂糖菓子の為に、とは言い出せなかった。密は視線を外しながら、嘘ではないしな、と自分に言い聞かせる。ガラガラ、と何処かで建物が崩れる音がした。この場所の建物は、みんなゴミで作られているから酷く脆いのだ。街の開発で出た不要物は、みんなここに捨てられていく。
 足音から察するに、どうやら追っ手が来ているらしい。この貴族を渡したら、多少なりとも金が手に入るかもしれない。密はチラリ、と音のした方に目を向けた。
「そうだったのか! いや誤解してすまなかった、ありがとう」
 貴族は疑うことを知らないらしい、と密は学んだ。溜息でもついてやろうかと思ったが、誉の表情を見て飲み込んだ。
 自分自身の行いは、いつも人に苦しげな表情を与えるばかりだったのだ。
「ワタシは有栖川誉だ。キミは御影密くんかい?」
「そうだけど」
 密はニコニコしている誉をジッと見つめた。相変わらず地面に転がっている。
「なんでオレの名前、知ってるの」
 密が警戒心たっぷりにそう言うと、誉は首を傾げた。
「だってキミ、すごく綺麗じゃないか」
 ◇
 それ以来、誉は時々密の元を訪ねてくる。現に今も、誉は一人でスラムにやってきて、ゴミの山に足を取られてひっくり返っているのだ。
「密くん!」
 覗き込んでいる密に気がつくと、誉はガバリ、と身を起こした。ギョッとした密が飛び退くと、その分の距離を詰めて目を輝かせている。
「今日はラズベリーのギモーヴを持ってきたんだ」
 こう言われると、密も文句を言えないのだった。
 密のことを命の恩人として認識した誉は、健気にもマシュマロを渡す為に会いにくるのだ。密と誉が出会った日、密が誉に「それちょうだい」とマシュマロを指差したことから、密の好物を学んだらしい。
「ありがと」
 控えめな声で礼を言うと、誉は「キミが喜んでくれたら良いのだ」と笑った。
「嬉しい。すごく。......でも、もうこんなところ来ない方が良い」
 前々から密は誉に注意していた。このスラムでは、金も地位も、失うものが何一つない者たちが暮らしている。そんな所に、見るからに金持ちそうな貴族が一人でのこのこやって来るのは危険だ。
 せめて護衛をつけろ、と言うのに、誉は頑なだった。友人としてキミに会いたいのだ、と言われてしまうと、密は口ごもってしまう。長らく一人で暮らして来たのだ。自分を訪ねてくれる人の存在は、正直言って、とても嬉しい。
「大丈夫だよ、夜になる前には帰るから」
 誉はいつも、出会った時と同じく、夕方に現れる。誉が来るのは不定期だったから、密はいつも、街とスラムを繋ぐ細い道に気を遣わなければならなかった。自分自身が誉の元に通おうか、とも考えたが、なんだか気恥ずかしく、結局誉に言い出すことができないでいる。
 誉のよく分からない詩を聞かされながら、密はマシュマロを口に放り込んだ。鉄屑をベンチの代わりにして、太陽が少しずつ傾いていく中、二人はポツポツと会話をする。
「そういえば、キミはいつも何をして過ごしているんだい?」
 まさかずっと眠っている訳でもないだろう。そう言われて、密はなんと答えるか迷った。素直に自分の仕事を教える気にはなれなかったのだ。
 この貴族は、きっとすごく綺麗な世界で生きている。それを、自分という存在で汚してしまうことは躊躇われた。
「掃除」
 ......嘘じゃない。密は自分に言い聞かせる。
「ほう! それじゃあ、じきに此処は綺麗になるんだろうね」
 誉は辺りを見渡した。見渡す限りゴミだらけだ。到底綺麗になるだなんて思えない。それでも密は、「そうだね」と同意しておいた。
「ああ、もう日が暮れるね。今日はここで失礼するよ」
 それじゃあまた。
 そう言って、誉は帰っていった。まもなく、夜がやって来る。
 ◇
 夜というのは密の時間だった。猫のように俊敏に、音も立てずに近づいて、そうして掃除をする。今日は仕事がある日だった。
 ターゲットは最近街で急成長している成金らしい。しかし密にとってはどうでも良いことだった。殺してしまえば、みんなただの肉だ。
 月明かりの中を、密は任務の完了を報告する為に歩いていた。スラムには夜になると騒がしくなる場所がある。所詮花街と言われるものだ。
 密は脚のない嬢からの誘いをにべもなく断り、決められた場所に向かう。この通りを抜けた突き当たりが目指す場所だった。
「随分待ったぞ」
 今回の依頼人は、いつも黒色の帽子を目深に被っている。そうでなくとも、白い仮面をつけているものだから、かなり不気味だ。よっぽど素性を知られたくないらしい。
「それで? どうだったんだ。上手くいったのか」
 素顔を晒さないよう徹底する者はよくいるが、なにより密がこの男を気味悪く感じるのは、その執念深さにあった。一度決めたら、必ず達成しなければ気が済まない性格らしい。今回の依頼だって、密は最初断ったのだ。
「うん」
 密は証拠として、切り取った耳をポケットから取り出した。この耳の持ち主は警戒心が強いと有名だった。密の同業者はみんな、返り討ちにされてしまったらしい。
 それで密も初めは無理だ、と言ったのだけれど、どうしても頼む、それでも無理なら他の者に頼む、と言って聞かない。これ以上犠牲者を増やすのはうんざりだったので、密は仕方なく引き受けてやったのだった。
「流石だな」
 依頼人は片眉を吊り上げて笑った。報酬だ、と重そうな麻袋を取り出し、密に投げて寄越す。密が片手でそれを受け取ると、ジャラ、と硬貨が擦れる音が響いた。
「それじゃあ」
 報酬を受け取った密はさっさと背を向けた。こんな所に長居するつもりはなかった。何より、朝になったら街にマシュマロを買いに行くつもりだったのだ。
「ちょっと待ってくれ」
「......何?」
 急に引き止められたので、密は苛々しながら振り向いた。はやく戻って、ゴミの中で眠りたかった。
「もう一件、頼みがある。報酬は弾む。今回以上に」
 密は先程受け取った麻袋を揺らしてみた。結構重い。
「話なら、聞く」
「そう来ないとな」
 依頼人はハハハ、と乾いた笑い声をあげた。酷く不愉快に聞こえて、密は顔を顰める。花街の方から、女の喘ぎだか叫びだか、区別がつかないような声が聞こえてくる。
「簡単な依頼だ。あまりにも退屈すぎて、お前なら途中で眠ってしまうくらいだよ」
「御託はいい」
 つれないな、と依頼人は肩を竦めた。
「今度市長選があるんだ。敵の数を減らしたい」
「つまり?」
「掃除を」
 結局いつもと変わらないじゃないか。密は溜息をついた。
「狙いは? どこの誰?」
「貴族だ。有栖川という」
 密はドキリとした。動揺を見せぬよう、神妙そうにへぇ、と頷く。
「名前は?」
 どうか別人であってくれ。祈るような気持ちだった。
「誉という。まぁすぐに分かるさ。なんたって妙な髪型でな。嫌に目立つ」
 いっそ悲しいほどに心当たりがある。変な髪型で、一つ一つの動作が大袈裟で、不思議と人の目を惹く男! 密は絶望的な気持ちで、力なく笑う。
「それで? やってくれるのか」
 この男の執念深さを、嫌と言うほど知っている。ここで自分が首を縦に振らずとも、今度は別の者に「掃除」を頼むのだろう。
「......分かった、やる」
 自分がなんとかしなければ。密は必死に考えていた。
 ◇
 目覚めると、清々しいほどの快晴だった。もう午後なのか。密は視界の端に誉の姿を捉えて随分長く眠っていたのだ、と気がついた。
「密くーん」
 ぼんやりとした意識で、呑気なものだな、と思った。自分が狙われていることも、自分が優しくする相手が汚れきっていることも、何も気がついていない。無知は幸福、とはこの事である。こんなに悩んでいるのに、馬鹿みたいだ。
 素直に起きてやることが癪で、密はごろりと寝返りを打った。
「起きたまえ、ひそかくーん」
「......うるさいアリス」
「今日はご機嫌斜めだね」
 誉は肩を竦めた。八つ当たりだ、とは密自身も気がついていたが、こうでもしなければやっていられなかった。
 密の冷たい態度にも誉はすっかり慣れている。密が寝床にしている鉄板の上に躊躇することなく座って、一人で話し始めた。
「今日は少し早めに帰らなくてはいけなくてね。というのも、今日の夜社交パーティーがあるんだ」
 よく知っている。密は目を閉じたまま思った。計画では、誉をそこで殺すことになっているのだ。
「......楽しみ?」
 聞いてみて、密は自嘲した。もっと他に言うべきことがあるだろう。そのパーティーには絶対に行くなとか、自分自身の正体だとか!
「ああ、楽しみだ。多くの人と交流を持つことは、自分の世界を広げることだからね。ワタシの芸術はよりいっそう高みへ向かうのだ!」
 本当に呑気だ。密は溜息をついた。誉は密の口にマシュマロを運んでやりながら、そうだ! と立ち上がった。
「キミも今日のパーティーに来てくれないかい? そうしたら、きっともっと素敵だ」
 密は思わず、はぁ? と声をあげた。誉の考えることはいつも突飛だ。スラムの人間を貴族の集会に呼ぶなんて馬鹿げている。
「オレなんかが行っても場違いでしょ」
「そんなことはないさ。キミは美しい」
 オレがどうやって生活してるかも知らないくせに。貴族とはここまで警戒心がない生き物なのだろうか、と密は頭を抱えた。
「......ずっと思ってたんだけど」
 密は次に自分がする質問に対して、期待と不安が綯い交ぜになった、奇妙な感情を抱いていた。言い淀む密に対して、誉が不思議そうに首を傾げる。そうすると、誉の髪の一房がさらりと頰にかかって、精巧なビスクドールのように見えた。綺麗な生き物なのだ。見た目はもちろん、中身に関しても。
「なんでオレにかまうの」
 柄にもなく緊張していた。ただ、密には本当に理解できなかったのだ。オレが命の恩人だから? それならもう、充分なほどお礼をしてもらった。
 それから、正直に言おう。これは密自身にもよく分からない感情だった。もしも仮に──恩義の為だ、と言われたら、なんだか寂しかったのだ。
「そんなの」
 誉は口を開いた。
「キミは命の恩人じゃないか」
 ......そう、と密は呟いた。知っていたはずなのに、どうして自分は傷ついているのだろう。密は最近、自分自身を理解できなかった。地面に落ちた影が伸びていく様を、無言で見つめる。もう夕方だ。暫しの沈黙が二人の間に流れた。
「ただ」
 もう帰った方が良い。密がそう言おうとした矢先だった。
「それは建前で、本当はキミと友人になりたい。......そう言ったら、キミは怒るかい?」
 誉は困ったように笑った。
「怒らない」
 密は真っ先に言った。先程とは打って変わって、自分自身が舞い上がっているのが分かった。らしくない、と自制する自分がいることに気がつきながら、密はまた口を開いた。
「だってもう、友達だし」
 ぱぁ、と誉の表情に花が咲く。密は気恥ずかしくなって、すぐに目を逸らした。詩興が湧いたよ! と騒ぎ始めた誉を無視して、密は再び考え込む。実は自分は殺し屋で、今夜アリスを殺すことになっているから、パーティーには参加しないでほしい。絶対に伝えるべきだ。けれど、せっかく友人になれたのに、今まで騙していたことを告げてしまって良いのだろうか。
 臆病になったものだ、と思う。それでも、嫌われることが怖かった。
 自分の正体は明かさないにしろ、せめて命が危ないことだけでも伝えよう。密が「アリス──」と呼びかけた時だった。
「おや、誰か来るね」
 ハッ、と顔を上げる。こちらに向かって来る人影が見えた。次第に近づいて来る人間の服装には見覚えがあった。いつも被っている黒色の帽子に、白い仮面!
 間違いない、あの依頼人だ。
 密が硬直している間に、依頼人は二人の目の前までやってきた。改めて近くで見ると、死神にそっくりだ。密は舌打ちをしそうになった。
「こんにちは。......いや、そろそろこんばんは、かな」
 依頼人は密と誉の顔を見比べながら、形式的に挨拶をした。寝転がったままだった密は無言で起き上がる。誉だけは「こんばんは」と挨拶を返した。
「驚いたな、お二人は知り合いだったんですね」
 依頼人は密をじっと見ながら言った。白い仮面の奥の目が、すうっと細められたのが分かる。密は返事の代わりに沈黙を寄越した。
 これ以上何も詮索しないでくれ。密はそう願うが、誉は何も事情を知らない。
「おや、ワタシ達を知っているのかい」
「ええ。有栖川さんは有名ですから。それに、彼とは個人的に面識がね」
「ほう。お互い密くんの友人というわけか」
 密を他所にして二人は会話を進めていく。誉の友人、という言葉にピクリと反応した依頼人は、密をじろじろと眺めてから、口元を歪めて笑った。
「まさか有栖川さんと御影さんに交流があったとは......」
 流石有栖川さん、噂は本当だったんですね。誰にでも分け隔てない態度を取られると評判ですよ。今度の市長選、出られるんでしょう? きっと確実ですよ。なんといっても、貴方には人気がある。
 依頼人の口はよく回る。その割に、ちらりと覗く目は全く笑っていなかった。寒気すら感じる。
「そういえば、キミのその格好、もしかして社交パーティーに?」
 依頼人の不思議な格好が気になるらしい誉が尋ねた。その格好は、殺しの依頼をした人間の顔を隠すためのものだ、と言ってしまえたら! けれど、そのことを告げれば、密は誉に自分の正体を明かさなければならない。これまで何人を消し去ってきただろう。掃除と称して、自分がしてきたことは何より社会を汚す行為だった。
 密は未だ、誉に真実を告げられずにいる。だって、もしも嫌われてしまったら!
「社交パーティー?」
「今夜街で開催されるんだ。......そうだ! 密くんも来ることになっているんだ、キミも来るといい」
 密はギョッとして誉を見た。今、アリスはなんて言った? 自分を殺そうとしている男を招待してどうするんだ。頼むからやめてくれ。密の思いも虚しく、誉も依頼人も乗り気だった。
「良いんですか。是非行かせてください」
 御影さんもいらっしゃるなんて嬉しいなぁ。依頼人はわざとらしく笑った。
「夜になったら、街の時計台に来てくれたまえ。最近出来たばかりの、あの大きなやつだ。今回のパーティーは、時計台の完成を祝うものでもあるんだ」
 密は時計台に良い印象を抱いていなかった。あの開発で、スラムには大量のゴミが運び込まれたのだ。しかもその完成を祝うパーティーで、誉の命が狙われている。余計に祝う気にはなれなかった。
 ではまたあとで、と誉が去っていくと、依頼人は密に詰め寄った。
「お前達が知り合いだったとは、聞いていないぞ」
「......聞かれなかった」
「軽口も大概にしておけ」
 依頼人は吐き捨てるように言った。
「仕事は別の者に頼む。今夜確実に仕留めなければ、選挙に間に合わない」
 言い捨てて立ち去ろうとする男の背中を見て、密は思った。ここで、こいつを殺してやろう。アリスの命を守ることが何よりも大切だ。今更一人や二人殺したところで、自分の罪は変わらないじゃないか。
 密はじりじりと、仮面の男に近づき始めた。音も立てず、俊敏に。懐に忍び込んで、喉笛を切り裂く──
「ああ、そうだ」
 ふと男が立ち止まった。
「私はあの馬鹿とは違うからな。何の装備もせず、ここに来ると思うか?」
 バッと顔を上げた密が辺りを見回すと、多くの警護が物陰に身を潜めている。やられた、と密は思った。この人数相手では、流石に自分でも敵わない。
「それじゃあ、またお前に依頼できる日を楽しみにしている」
 悠然と去っていく男の背中を、密はぎゅっと拳を握りしめて睨みつけていた。このままにしておくわけにはいかなかった。
 ◇
 夜の時計台は美しかった。闇夜にぼうっと照らしだされた姿は、この街の発展を象徴するにふさわしい物に思える。その実この時計台を作るために、多くの者が苦しんだという。皮肉ものだ、と密は思った。
「やぁ密くん。よく来てくれたね」
 誉は時計台の下でニコニコ笑っていた。いつも上品な格好をしていたけれど、パーティーを意識した装いを見ると、そういえば貴族だった、と再確認させられる。密は黙って誉の元に向かった。
「キミの服も用意してみたのだけれど、着替えるような場所がなかったね」
 誉がそんなことを言っている間に、相変わらず白い仮面にタキシードを翻して依頼人がやって来た。
「お待たせしました。いや、慣れないもので準備に手こずってしまいました」
 よく言う。何が準備だ。別の者に掃除を頼んでいたのだろう。ジトリとした目を向ける密に対して、男はどこ吹く風だった。
「さぁ、行こうか」
 誉は二人の先を切って歩き始めた。
 誉に連れられて時計台の中に入ると、中には金持ちそうな人間が多くいた。富裕層ばかりの会場で、密は嫌に目立った。服だってそのままで来てしまった。
 居心地の悪い思いをしながら、密は誉の近くから離れないように気をつける。下手に離れてしまったら、誉の命が危ないかもしれないのだ。
 ふかふかしたカーペットの上に、いくつもテーブルが置かれている。当然のように豪勢な食べ物が並んでいた。
「美味しそうだね、密くんも食べよう」
「ダメ」
 密は慌てて、皿に手を伸ばした誉を止めた。もしも毒でも入っていたらどうするつもりだ。不思議そうな顔をする誉に、密は「ちょっと」と袖を引いた。
「今日は何も食べちゃダメ」
 耳打ちをすると、誉ははて、と首を傾げた。とにかくダメだ、と念を押すと、誉は不思議そうな顔をそのままに「分かったよ」と頷いた。
「それから──」
 狙われてる、逃げよう。密はそう続けようとして、しかしそれは叶わなかった。会場内の電気が、突然ガタン! と音を立てて消えたのだ。
「停電かな?」
 どこまでも呑気な誉の手を引いて、密はテーブルの下に身を隠した。大きな音がしたのは、多分、扉が閉められたからだ。誉が何か言う前に、シッ、と密は口を覆った。
「静かに」
「一体どうしたんだい、密くん。今日のキミは少し変だ」
 小声で誉は密の様子を責めた。密は本当のことを話すか悩んで、それから誉の手を握った。
「アリスは狙われてる。殺されちゃうかもしれない」
「なんだって!」
「とにかく、今は逃げよう」
 言えなかった。密は心の中でごめん、と謝る。だって、友人が殺し屋でした、なんて知ったら、どう思うだろう。嫌われるのが怖かった。
 初めから、仲良くなんてしなければよかったのだ。失うものなど何もなかった。だからこそ、誰かの命を奪うことに対して、躊躇がなかった。でも今はどうだ。密は自嘲する。何よりも、友情を失うことが怖い!
 密は人を縫って進んだ。窓から逃げれば助かるかもしれない。誉も訳が分からないなりに従順だ。密は辺りを見回した。スラムの育ちだ、夜目は利く。
 会場内には数人、貴族らしい格好をしていない男が彷徨いていた。誉を探しているのだ。
 密は机の下を這って移動した。カーテンの開いた窓が一つだけある。月明かりを頼りに、密はそこを目指した。
「止まって」
「うわっ」
 今度はなんだい、と誉は憤慨した。窓の横に、刃物を持った男の姿が見えたのだ。完全に囲まれた。密は頬の内側を噛んだ。
「有栖川さん、どこですか」
 あの男の声だ。ここだ、と返事をしようとする誉の口を、密は慌てて塞いだ。
「バカアリス! アイツが、アリスのこと狙ってる」
「えっ、でも、キミの友人だろう? どうしてそんな......」
 有栖川さーん、という声が近づいてくる。それ以外にも、会場内には誉を狙う男が何人も彷徨いている。出口は塞がれた。
 密は遂に、「よく聞いて」と口を開いた。
「アイツはオレの友達なんかじゃない。オレに、アリスを殺すように依頼した」
 誉の切れ長の目が見開かれたのが分かった。ごめん、とまた心の中で繰り返し、密は先を続ける。
「騙しててごめん。オレ、本当は掃除屋なんかじゃない。頼まれた人を、殺すのが仕事」
 でも、オレにアリスは殺せない。
 そう言って、密は誉の頰に両手を当てた。
「オレが、あの窓の男をなんとかする。アリスはその間に、窓を割って逃げて」
 言い終わり、誉から逃げるように密はテーブルの下から駆け出そうとした。しかし、グッと手を引かれ、尻餅をついた。
 誉が密を止めたのだった。
「騙してなんかいないじゃないか。キミは、掃除屋なんだろう?」
 知っていたよ、と誉は笑った。
「ワタシも、キミに依頼しようと思っていたんだ。どうやら私を狙っている人間がいるらしいから、なんとかしてほしいとね」
 驚く密を他所に、誉は続けた。
「マシュマロが好物だと聞いたから、配ったりしたらキミと出会えると思ったんだ。まさか本当に会えるとは思っていなかった」
 誉は楽しそうに笑った。密は呆然と、なんで、と呟いた。自分がそんな人間だと知っていて、どうして友人だ、なんて言ったのだろう。知っていてどうして、近づいたりしたのだろう。どうして、依頼をしなかったのだろう。
「キミは美しい。それに、優しい子だった。ワタシと仲良くしてくれただろう? 嬉しかったんだ」
 友人に殺しをさせるわけにはいかないからね。誉は器用に片目を瞑ってみせた。
 なんだ、と密は肩の力が抜けていくのを感じた。初めから知られていたのならこんなに悩む必要はなかったじゃないか。
 密ははぁ、と溜息をついた。色々と言いたいことはあった。しかし、危機的状況に変わりはない。
「なら話は早い。とにかく、オレがあの男をなんとかするから──」
「言っただろう、友人に殺しをさせるわけにはいかない」
 誉は頑なだった。密は苛立ちを隠さず口を開く。
「じゃあ、どうやって! 囲まれてる。オレたちが出口に近付いたら見つかっちゃう」
 密は誉に詰め寄った。ドアや窓には殺し屋たちが待機している。不用意に近付いてしまえば、あっという間に殺されてしまう。机の下に隠れていられるのも時間の問題だった。そのうちに見つかってしまうだろう。
「簡単だよ。『ワタシ達』が近づかなければ良いんだ」
 誉はあくまで勝ち気だった。密は誉の言う意味が分からず、「どういうこと」と苛立った口調で言った。
「キミの仕事は掃除屋だ。この時計台は人の汚さで作られたようなものだ。......ところで、ゴミはどうするのが正解か、知っているかい?」
 密はやっと誉の言わんとすることが分かって、テーブルの下から抜け出した。真っ白なテーブルクロスの上には、燭台が灯っている。
「燃やす、そうでしょ」
 密は燭台を倒した。ぼう、と音を立てて、火は燃え移り、少しずつ大きくなっていく。
「火事だ!」
 炎に気がついた誰かが叫んだ。停電に困惑して立ち止まっていた人々は、一転して出口を目指し走り始める。
 密は愉快でたまらなかった。あんなに小綺麗な格好をして、澄ました顔で踊っていた人だって、顔を歪めて必死に生きようとしている。ここにいる誰もがそうだった。
 きっと自分も、彼らも、変わらない。
「ワタシ達も逃げよう、密くん」
「うん」
 差し出された手を掴んだ。炎に照らされるアリスは綺麗だ、と密は思った。
 ◇
 それから間も無く、会場で刃物を持った男が彷徨いているのを見た、という多くの人の証言から、件の男は捕まった。結局出来たばかりの時計台は燃えてしまった。けれど、密に後悔はなかった。掃除屋としての最後の仕事が出来て良かった、とさえ思った。負傷者が出なかったことは救いだった。
 意外なことに、誉は市長選には出馬しなかった。政治には興味がないのだという。あの男の心配性は完全な空回りだったというわけだ。
 密は相変わらず、ゴミの街で暮らしていた。
「待たせたね、密くん」
 誉は転ばないように気をつけてやってきた。作業着が絶望的に似合っていない。密は笑ってしまいそうになるのを堪えて、「アリス、遅い」と口を開いた。
「ゴミ、こんなにあるんだから」
 密は現在、正真正銘、本物の掃除屋として生きている。

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