対価に呼吸を

2018年06月01日

『A3!』二次創作小説 密誉 2018年5月21日

「約束を果たす」

誉さんの物忘れが酷い話



「あれ、密くん、ワタシの万年筆を知らないかい」
 机の周りをきょろきょろ見回して、誉は首を捻っている。その様子を見て、密は呆れたように溜息をついた。もう、何度目のやり取りだろう。
「それなら、さっき出かけたとき、棚の上に置いてたでしょ」
「──ああ、そうだったね。ありがとう密くん」
 助かったよ、と言いながら、誉は棚から万年筆を手に取った。つい数分前、他でもない自分がそこに置いたというのに。最近のアリスは、なんだか上の空だ。元来物を大切にする人であるのに、失くし物が増えた。どうやら、詩の制作が行き詰まっているらしい。
 密はよく、誉の私物の行き先を尋ねられた。その度に、密は丁寧に場所を教えてやる。誉も律儀に「ありがとう」と笑うので、満更でも無かった。誉の行動を誰より見ているのは、間違いなく密なのだ。誉が呟いた言葉も、誉が見失った物の場所も、本人よりもずっと正確に覚えていた。密は誉を誰より近くで見守っている。それはこれからも変わらなかった。
 万年筆を手に、誉は早速原稿用紙に向かい合った。けれども、万年筆は誉の左手をくるくると移動するばかりで、一向にペン先が紙を滑り始める気配が無い。
 ソファーに座って、密は誉の後ろ姿を見つめていた。心なしか、机に向かって座った姿勢にも覇気が無い。弱々しい、たどたどしい──そんな言葉がしっくりくる。補助輪付きの自転車に乗り始めたばかりの、幼子に似ている、と思う。彼は指示を待っているのだ。ペダルの踏み方が分からない、ハンドルを握る位置が分からない、どこに向かうのかが分からない。
 なにより、自転車に乗る意味が分からない。
「......アリス」
 密は見かねて声をかけた。誉は原稿用紙に向き合ったまま、「いや、すまない。最近は稽古ばかりで、詩作にふけることが久々だからね。感覚を取り戻すのに時間がかかっているようだ」
 と言うと、急に立ち上がって、
「散歩に行ってくる」
 ジャケットを羽織って部屋を出て行った。もうすっかり夏日よりになったというのに、誉は未だに冬のような格好をしている。季節という概念が、すっかり頭から抜けてしまったのだ。
 二〇五号室は、がらん、としていた。誉が出て行くと、部屋に響くのは時計の針の音ばかりだ。秒針がコツコツと時間を刻む。
 密は自分の呼吸が浅くなっていることに気がついて、はぁ、と深く息をついた。誉の机に広がっている原稿用紙には、インクの垂れた染みが三つできているだけで、進展がない。一時間、いや、二時間。あるいはそれ以上、アリスは原稿用紙に向かっていたのに。
 誉の詩作は、行き詰まっている。
 気分を入れ替える、という名目で、誉が散歩に出かけることはよくあった。わざわざ密に報告してから出て行くので、その頻度を密はよく覚えている。
 これでもう、今日は三度目だった。
 誉が散歩に出かけるのも、誉が万年筆を無くすのも、今日だけで三度繰り返している。朝食を食べ終わってすぐ、昼食を取った直後、それから、現在午後三時。異常なペースだった。
 つまり、誉の詩作は行き詰まっている。
 そもそも『最近は稽古ばかり』という言葉はおかしいのだ。誉は最近、原稿用紙に向かっては、ただ時間が過ぎるのを待ち、暫くすると思い出したように散歩に出かける毎日を繰り返しているのだから。
 散歩に出ていったきり、誉の帰りがあんまり遅いので、密は午後十時に寮を出た。何かおかしい。何か引っかかる。大の大人相手に、と笑われたって構わない。アリスのことは、誰よりオレが見てる。
 この時期になると、過ごしやすい夜にストリートACTが行われることも多い。橙色の柔らかな街灯の下で、行われる即興劇は様々だ。いずれも夜、という時間帯に合ったしっとりとした内容が多く、密は当てもなく町を歩きながら、時折拍手を送った。
 一時間ほど歩き回って、案外アリスはタクシーでも使って寮に戻っているんじゃなかろうか、という気分になってきた。もしもそうだったら、とんだ骨折り損である。もう帰ろうか、と思いながら、密は煉瓦の橋を渡った。密は夜を歩くことが好きだったのだ。
 小さな橋は景観の為に作られた物なので、無論橋下を流れる川も人工のものらしい。ライトアップされた情景は、それこそ劇中のワンシーンを切り取ってきたようで、「演劇の町」の名にに恥じぬ構えだ。消えた同居人を探す主人公にでもなった気分だった。
 人生を劇に例えたのは、確かシェイクスピアだったっけ。アリスがうるさく語ってきたのをよく覚えている。しかし、最近はその蘊蓄ももっぱら減って、誉は一回りも二回りも小さくなってしまった。
 橋を渡り終えて、密は周囲を見回した。誉の姿は見えなかった。
 もう帰ろう。踵を返そうとした瞬間、見覚えのある赤毛が小さく視界に瞬いた。
 橋を渡ってすぐ、ガラス張りのバーの一角、誉は一人景色を眺めながらグラスを嘗めていた。密の姿に気がついた誉は、それこそ親を見つけた迷子のように、今にも泣き出しそうになりながら破顔した。
「ねぇ、なにかあったんでしょ」
 店に入った密は開口一番こう言った。何かおかしい。何か変だ。違和感は口にしなければ、一生拭われることがない。それを知っているから、密は敢えて率直に尋ねた。
 酔っているのか、誉の顔は赤かった。けれども、普段のように泣き出すわけでも無い。目をとろん、とさせながら、穏やかにグラスを傾けている。
「うん、そうだねぇ」
「ちゃんと答えて」
 誉はグラスの氷をからから言わせた。店内には気の利いたレコードのジャズが流れていた。人混みはまばらで、誰もが内緒話をするように身を寄せ合っている。多分、秘密を打ち明けるにはうってつけの場所だった。誉は白状するように口を開いた。
「寮に、帰れなかったんだ」
 え、と密は硬直する。しかし、心のどこかから、ああやっぱり、と言う声がした。
 軽やかなピアノの音で、流ていた曲は終わった。やがて次のレコードに切り替わり、店内には再びジャズが響く。温かみのあるサックスが印象的な、穏やかな曲調だった。
「寮の場所がね、分からなかったんだ。散歩も切り上げて、もう帰ろう、そう思った時、自分の辿ってきた道が分からなかった。......忘れてしまった。多分、密くんももう気づいていると思うけれど、最近変なんだ。記憶が、少しずつ、溢れていく」
 誉はグラスを呷った。それから、はは、と笑ってみせる。自身の酔い方さえも忘れてしまったようだった。こんな時はしこたま酒を飲んで、馬鹿みたいに泣くのがアリスじゃないか。
「無くす物が増えたんだ。詩の作り方が、もう分からない。団員のみんなの顔が、もう曖昧だ」
 どうして誉が笑顔を浮かべているのかが、密には何となく分かる気がした。オーガストが最後に見せたのは笑顔だったように、誉もまた、同じ心境なのだろう。終わることを知っている目だ。そんなの、あんまりだった。
「いつかキミの名前を忘れてしまったら、その時は、また教えてくれるかい」
 誉は微笑みながら小指を差し出した。カラン、とグラスの氷が崩れる。密はそれに指を絡めることはせず、代わりに口を開いた。
「やだ。忘れるとか、そういうの。もし忘れたら、許さないから」
 酷い言い草だ。けれど、これくらい許してほしかった。忘れる苦しみを味わって、今度は忘れられる苦しみを知らなければならないなんて、そんなの悲劇だ。
 人生を一つの劇に例えるのなら、台詞一つで喜劇にしてみせる。
「キミがそれを言うのかい」
 誉は笑った。久々に、アリスがちゃんと笑うところを見た。密は満足だった。
 寮に向かう帰り道で、誉はやっと「怖い」と呟いた。密はそれに小さく、うん、と返して夜空を見上げた。都会の夜空は、なんだか小さい。けれど、隣に誉がいるだけで十分だった。誉の頬に、ぽろぽろと涙が伝っていく。泣かないでくれ、と叫びだしたかった。誉の涙と一緒に、その記憶まで溢れていく気がするのだ。
「約束するよ、キミの名前は忘れない」
 凛とした声でそう言った誉に、柄でもないような言葉を言いかけて、密は口を噤んだ。
 代償に呼吸を差し出した誉に、愛の言葉の一つや二つ、投げかけておけば良かったものを。

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