粛清

2018年06月01日

『A3!』二次創作小説 密誉 2017年8月26日

「騙るだなんて、許さない」

なんちゃってミステリ



「視線を感じる?」
 私の相談を受けて、担当は訝しげな表情を見せた。毎日のように通っている出版社だったが、誰かにこの話をするのは初めてだった。ここのところ、毎日毎日誰かに見られている気配がするのだ。
 担当はずれた眼鏡を押し上げて、それは、いつ感じるのです? とメモを用意しながら私に尋ねた。
「ああ、それがね、自宅からこちらに向かう際や、帰る際のことなんだ。ふとした時に、恐ろしい視線を感じる」
 その視線というのが、とても常人のそれではないということを私は細かく話した。行き帰り、この出版社と天鵞絨駅との間。この区間内で、何者かが私をつけて歩いている。話せば話すほど、担当者はどんどんと顔を曇らせていった。大変良くない傾向だ、という彼の呟きが、出版社の味気ない白い壁紙に吸い込まれていく。
「それで、その、貴方を追い詰める人の姿を実際にご覧になりましたか?」
「いいや、まだ一度も見ていないんだ。このところは毎日のように視線を感じるというのに。それがひどく恐ろしい」
 私の話を聞いてはさらさらとメモを取り、担当はううん、と唸ってボールペンを顎に当てた。ややあって、彼は「軽度の統合失調症が疑われますね」と言った。
「統合失調症......?」
「話を聞く限り、そのように思います。統合失調症というのは、そのように誰かの視線を感じたりするものです。まだまだ初期の段階ですから、十分対応が可能ですよ」
 またお薬を出しておきます、と言って担当は他の編集者を呼んだ。そうしてなにやら話すと、「今日はもう結構ですよ、お疲れ様でした」と微笑んだ。彼の笑顔には、不思議と人を安心させる力があるのだった。
「ありがとう。失礼することにするよ」
 私は立ち上がって、足取り軽く出版社を後にした。これまでは常に怯えて、下を見て歩いていたのだけれど、人に話してみると随分楽になるものだ。気分もいいから書店に立ち寄って、発売されている自分の詩集の様子を見てから帰ろうか。思いたって、私は駅前の本屋に立ち寄ることにした。話題の新書や漫画が、入り口付近にずらりと並べられている。
 私の詩集はその中にあった。最新作だけでなく、これまでに出してきた全ての本が、『有栖川誉特集』として積み上げられている。非常に満ち足りて、誇らしい気分になった。私の詩が、このように世間から認められているのだ。
 いつのまにか、私の隣に青年が立っていた。美しい顔立ちで、私よりもすこし背が高い。白銀色の髪を輝かせている青年が手に取ろうとしたのは、他でもない私の詩集だった。私は嬉しくて、思わず「君、私のファンなのかい?」と声をかけた。青年は緩慢な動作で本を手に取って、じとりとしたペリドットの瞳だけをこちらに向けた。
「オレは、有栖川誉が好き」
「そうかい! それは、嬉しいよ」
 実は、その本の作者は私なんだ、と告げると、それまで無表情を貫いていた彼の眉がピクリと動いた。彼は大切そうに本を撫でた。
「オレは、アリスが好きだから」
 青年はふい、と私から体を背けて、さっさとレジに向かって行った。見れば見るほど、とても不思議な男だった。私は、これは良い詩のネタを拾ったな、と思った。はやく家に帰って創作活動に打ち込むとしよう。いそいそと書店を出て、私は天鵞絨駅に向かった。十五分ほど電車に揺られた後最寄駅を出て、歩いて自宅に向かう。すると背後から恐ろしいまでの執着を孕んだ、ねっとりとした視線を感じて、私は歩く速度を速めた。初めは気のせいかとも思ったが、もう無視することはできない。それほどまでに、なにか強い感情をもった眼差しが、私に注がれている。これがもしうら若き乙女からの恋のシグナルだったとしたら、それはそれは素晴らしいことだけれど、とてもそんな好意的なものではなかった。
 むしろ、殺意を感じる。何者かが私の命を狙っているのだ。
 私は早足で歩いた。しかし、何者かの気配は常に一定の距離を保って、どこまでもどこまでもついてくる。振り向いたら殺されてしまうのではないか、と思って、背後を確認することができない。私は振り切ろうとして、駆け足になりながら右へ左へ、めちゃくちゃな道を辿った。しかし距離は開くことなく、一定を保って、何者かがついてくる!
 もうそろそろ限界だった。息が上がって、私は歩くスピードを遅くした。せめて一体何が私を追い詰めているのかが知りたかった。手に汗が滲み、私の喉はからからに乾いていた。私を追い詰めるものの正体は、人か、悪魔か、化け物か、それとも。私が道の途中でピタリと足を止めると、ストーカーもまた、ピタリと足を止めた。一瞬、静寂が生まれる。太陽が赤々と燃えながら沈んでいく。どこかでひぐらしが鳴いている。
 ばっ、と私は思い切って振り返った。
「あれ......?」
 しかし、そこには何もなかった。私の影が黒く、長く伸びるばかりであった。一体何なのだろう。私はますます気味が悪くなって、震える足を叱咤しながら、自宅まで駆け抜けたのだった。
 見えないストーカーに震えながら、私は自宅に閉じこもっていた。いつ殺されるのかわかったもんじゃない。恐ろしさで、歯がかちかちと鳴っている。危険だ、隠れなくては、わかっている、でも、どこに? この狭い自宅──狭いマンションの一室だ──隠れられる場所なんてある訳もなかった。部屋中のカーテンを閉めて回って、私はがたがた震えながら膝を抱えて部屋の隅に座り込んだ。かつて無い緊張感。呼吸が浅くなる。クーラーもつけていない部屋の温度は恐ろしく暑いのに、暑いはずなのに、寒くて仕方がない。
 ピンポン。
 間の抜けた音で、インターホンが鳴らされた。まさか、嘘だろう、家までやって来たというのか。これまで気配を感じることはあっても、それは天鵞絨駅までで、こんな風に家までやってくることなんて絶対になかった。あまりの恐ろしさに、耳の奥で、キーンと高い音が鳴っている。私は何も聞こえないように、寝床から布団を引っ張ってきて、頭からそれをかぶった。これ以上なにも聞こえませんように! そんな願いを嘲笑うようにして、再びインターホンが鳴らされた。ピンポン、ピンポン、ピンポン! 何度も何度も、地獄からの手招きのように、インターホンが鳴らされる! ぎゅっと目を閉じて、私はひたすらに耐えた。そうしていると、やがて音が止まって、静寂が訪れた。諦めたのか。帰って行ったのか。
 私はそれを確認するために、足音をたてないよう細心の注意を払って、玄関に向かった。そっとドアスコープから外をうかがい見ると、なんとそこにいたのは、先日の不思議な青年だった。私の熱心なファンなのだろうか。そう考えれば、今までのストーカー行為も納得がいく。居留守を決め込もう。私は玄関にそっと背を向けた。しかし、「すみません、T橋さん、いないんですか?」とドアの向こうから声が聞こえたので、私は足を止めた。まさか、彼は人違いをしていたらしい。まだ彼がストーカーだと決まったわけでもないし、どうしようか。
 そう考えて、私はこれ以上の被害に遭う前に、きちんと彼と話をしようと決めた。彼がストーカー犯だった場合も一応あり得る話だから、チェーンをかけて、小さくドアを開ける。そして、「あの、人違いをされていませんか。私は有栖川です」と早口に言って、ドアを閉めようとした。──閉めようとしたのだ。
 ドアが閉まらない。
 さあっと汗が引いていく。小さくドアを開けた瞬間に、彼が、白銀色の髪と、ペリドットの瞳を持った美しい青年が、足を差し込んだからに他ならなかった。青年はチェーンを隠し持っていた巨大な鋏のような工具で切断すると、ドアをこじ開けて部屋に侵入してきた。
「誰か──」
 叫びかけてすぐに、首筋に冷たいものが当てられた。
「静かに」
 口を閉じて、こくこくと何度も頷く。青年は私の首筋にナイフをピタリと当てたまま、後ろ手にドアを閉めた。ギイ、と音をたてたのは、閉められたドアなのかもしれないし、逆に言えば地獄の門が開かれた音なのかもしれない。どちらにせよ、状況は最悪だった。
「わかってるとは思うけど、あなたは今、殺されかけてる」
 リビングに突き飛ばされ、足がよろけて私は倒れた。青年の言うことは嫌というほどよくわかっている。私はまた無言で何度も頷いた。
「いまから一つ、質問。この答えによっては、もう付け回したりしないし、こんな風に命を狙うことも絶対にしない。約束する」
 涙が滲んできた。身体に力が入らない。青年は私を掴み上げると、再びナイフを首筋にあてて、「わかった? わかったら、返事」と言った。私はうまく声を出せずに、それでも必死で「はい」と答えた。何を聞かれるというのだろうか。私にはとんとわからない。青年は一呼吸おいて、口を開いた。
「あなたの、名前は?」
 この質問が、私の命を左右するのだ。私は必死で考えた。なんと答えるのが正解なのだろうか。この青年は、なにを求めている? 素直に答えるべきなのか、あるいは。私がなかなか答えないことに苛立ったのか、青年は「はやく。ほんとのことを言えばいい」とナイフを押し付ける力を強くした。そのナイフを押し当てられた箇所に、ぴりりとした痛みが走って、それからカッと熱くなった。たら、と液体が肌を伝う感覚! この青年は本気なのだ。殺される。必死に考えた。私は、私の名前は。
「私は、私の名前は、有栖川誉だ!」
私は叫んだ。青年は、興味なさげにふうん、とだけ呟いて、「それが答え?」と私に問いかけた。
「ああ、ああ。これが、答えだ。私は有栖川誉。詩人、有栖川誉なのだ──」
 あ、と思う前には、私の首にナイフが突き立てられ、喉笛を掻き切った。痛みだとか、もうそういう次元ではなかった。脳内麻薬でも出ているのか、私が抱いた感情は、ああ、間違えてしまったのか、それだけだった。
「ざんねん。あなたの名前はT橋」
 その言葉を聞き、私の記憶が正確に繋ぎ合わさって、現実に引き戻されていく。......ああ、そうだ。そうだった。私は詩人有栖川誉の担当者であり、ファンであり、彼を心から尊敬していたのだ。
 意識が途絶えかけたその瞬間、青年は私を思い切り睨みつけ、言った。
「俺のアリスを汚さないで」
 そして私は思い出したのだ。本屋で見た、有栖川誉特集。そこには、「故・有栖川誉特集」と書かれていなかったか。
 有栖川誉は二十七歳で死んだ。紛れもなく、彼は天才だったのだ。

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