衝突するライカ

2018年06月01日

『A3!』二次創作小説 密誉 2017年7月7日

「孤独な軌道周回とその僅かな事故率について」

密くんと誉さんがプラネタリウムを見に行く話



 七夕とは逢瀬の日らしい。
 本日七月七日は七夕と呼ばれる日で、有栖川誉が言うには離れ離れになった織姫と彦星が一年に一度会うことができる記念すべき日なのだとか。昼食をとっていた矢先、大学の企画で余った笹を持ち帰りたいと車を呼び出した三好一成に「お前なぁ」なんて文句を垂れつつ、寮を出て行った古市左京の横顔が優しく緩んでいたのを御影密は見逃さなかった。
 はて、七月七日に笹を持ち帰るという行為は歓迎されるものらしい。左京があれでいて面倒見がいいことは密も知っていたけれど、無駄を嫌う男がわざわざ車を走らせるとは。すなわち七夕に笹を持ち帰ることは無駄ではないということだ。笹と七夕。記憶にはない言葉だった。笹って、大きいの? 七夕ってなに? いつものように密が誉に尋ねると、誉は紅茶をいれながら一つ一つの疑問に十の言葉で返答する。
 笹とは竹の一種で七夕にはこの笹に短冊という願いを込めた紙を飾る。三好くんが車を要求したということはきっと私たちの背丈くらいの大きさはあるのだろうね。それから七夕というのは簡単に言えば......そうだな、宙の恋人たちの逢瀬の日だ。彼らは愛し合っている恋人なのだがね、それが裏目に出て恋愛ばかり。もともと勤勉だった彼らは仕事をしなくなってしまった。怒った神が二人を天の川の対岸に置き、一年に一度しか会えないようにしてしまったのだよ。
 紅茶をいれおわった誉は密の方のカップにマシュマロを二つ入れた。
「先ほども言ったが七夕というのは織姫と彦星が一年に一度だけ会うことができるとされた日のことなのだがね、その逢瀬というのが実に詩的なのだよ。星で作られた巨大な川をカラスの群れが橋となって渡れるようにする。その上を歩いて二人は年に一度だけ許された再会を果たす」
「カラスの上が歩けるの?」
「ああ君は芸術というものを理解していないな、そんなことはこの際関係がないのだよ」
「ふぅん」
「この時期に雨が多いのは二人が会えない悲しみの涙を流しているからとも言われるね。......うむ、やはりミルクティーにはアッサムだ」
 昼食後の紅茶も手伝って誉は随分上機嫌だ。密はそろそろ誉の詩興が湧きそうだな......と身構えながら、すっかり気に入ったマシュマロミルクティーに口をつけた。
「しかし悲しみの涙ではなく再会の喜びの涙という説もある......というか、密くんは星座を知っているのかね?」
「空に星がたくさんあるのは知ってる」
 ついでに月も、と密は心の中で付け足した。夜空を見上げると嫌でも目に入って来るのだ。
「織姫と彦星も星座の一部の星がモチーフなのだ。こと座のベガと、わし座のアルタイル。その口ぶりだと星座のことは知らなさそうだね」
 しばらく黙ってミルクティーを傾けていた誉だったが、ふと瞳がきらりと輝いた。これは詩興か、それとも。密が退散を実行に移す前に、誉は「密くん、科学館に行こうじゃないか」と宣言してしまったのだった。

 平日の昼間の科学館というのは大抵空いている。暇な学生か、老後の趣味か、それとも自分たちのような限定的な身分の人間か。科学館に来るなんて子供ぶりだとはしゃぐ誉と、記憶を失ってから初めて来る自分。そう大して変わらないな、と密は思った。もちろん前提とする知識量は比べ物にならないのだけれど。誉が購入した入場券を受け取ると、巨大な球体を抱えたこの建物と、なんだかよくわからない数字が連続して書かれていたので、密は考えることを放棄したのだった。知らないだけでこの数列にも意味があるのかもしれない。それでもやっぱり、生きることに必要は無いものなんだろう。少なくとも寮に転がり込んでから、この数列を知らないがために苦労した経験はない。この世界には案外知らなくても生きていけることが数多く存在するのだ。三から始まるこの数列も、劇も、それからトンチキな詩も。
「さて今日我々が科学館へとやってきたのはプラネタリウムを見るためだ」
「プラネタリウム」
「七夕について詳しく説明してくれるプログラムとなっている。これで君は七夕についても、星座にもベガにもアルタイルにも詳しくなれる」
「それ、意味ある?」
「もちろん! 君の記憶が戻る手がかりが見つかるかもしれない。何より私の記憶にあるプラネタリウムというのは美しいものだ。きっと君も気にいる」
 プラネタリウムの上映までに時間があるから、せっかくだし他の展示も見に行こうと誉が言うので、密はそれに従うことにした。今は眠気がないからアリスについていくのであって、眠気がやって来たらそちらを優先してやるぞ、と自分を納得させる──悔しいが単純に興味があったのも事実だった。知らなくても生きていけることは多いけれど、生きることを楽しくするのはそんな無駄な寄り道だったりするのだ。これは密が寮に転がり込んでから学んだことだった。例えば劇、それからトンチキな詩。
「ひとまず地下の特別展示から見に行こうか。今は恐竜の展示を行っているそうだよ」
「恐竜......」
 かつて地球に存在したと言う古代生物。食物連鎖の頂点に君臨したという巨大なトカゲみたいな生き物。密にもなんとなく記憶はあった。
「恐竜は覚えているかい?」
「なんとなく。大きいトカゲ。太一が好きだって言ってた」
「太一くんはきっとティラノサウルスが好きなんだろうね。偏見だが、彼は肉食恐竜の王者に憧れを持っていそうだ。彼は純粋だから。ティラノサウルスは確かに強いが、もっとも恐れるべきはラプトルだと私は思うね。身体は小さいが、非常に賢い」
 そうだ、恐竜を学ぶならあの映画がいい! と早速今度一緒に観ることになるであろう映画の計画を誉が立て始めたのを横目に、密は欠伸を一つした。ティラノサウルス、ラプトル。知らない単語をあまり並べられると眠気が襲いかかって来るのでほどほどにしてほしい。
「恐竜というのは進化論的に言えば我々の祖先だからね、理解を深めることは我々自身を知ることに繋がるのだよ」
 ますます意味が分からないので密が首を傾げると、誉はつまりね、と前置きしてこう続けた。
 進化論から言えば全ての生き物は始め一つの同じ生命体だったのだ。それが環境が変わり、時代が変わり、生きるために少しずつ変化をして現在の我々、ホモサピエンス、ヒトになった。これを裏付ける証拠は様々。例えばヒトの祖先とされるサル、中でもチンパンジーとヒトの遺伝子配列はほとんど同じなのだ。他の生き物を知るということ、ひいては過去に生きた生き物を知るということは我々自身のルーツ、ヒトの歴史を学び、ヒトをより深く理解することに繋がるのだ。
 ......なんだか難しいことをつらつらと述べているなぁ、と密は思った。それにしても誉は色々なことを知っている。密がこっそり感心している間に、二人は地下の特別展示室にたどり着いた。
「私も恐竜に詳しいわけではないからね。さあ密くん、一緒に学識を深めようじゃないか」
 意気揚々と展示室に足を踏み入れた誉に続いて、密が眠気で重くなり始めた頭をあげると様々な標本が二人を歓迎した。
「大きい......」
「背の板が特徴的だね。ふむ、ステゴサウルスか」
「こっちは?」
「トリケラトプス。草食の恐竜だよ」
 密の質問に誉が答えながら標本を見て回っていると、一際大きな骨格標本が現れた。天井に届きそうな程の高さに、長い尻尾。それに加えて鋭い牙。これが今回の展示の目玉、恐竜の王者と呼ばれるティラノサウルスらしい。
「おお! 迫力があるね」
 密が大きさに圧倒されている間に、誉は嬉々として標本の説明を読みに向かった。
 密はもう一度誉の説明を思い出した。かつて地球に存在した生き物が恐竜。中でも進化論を裏付けるのが始祖鳥で、ああもうややこしい──とにかく、かつてこんなに大きな生き物が地上を闊歩していたのかと思うと信じられない。それと同時に恐ろしかった。こんなに大きくて、こんなにたくさんの種類の恐竜たちは一体どこに消えてしまったんだろう? 見上げたティラノサウルスの標本にこっそり問いかけても答えはない。かつて存在したという証だけが明確にあって、実際にはその姿がどこにも残っていないというのか。こんなに巨大な生き物でも消えてしまうのだ。それは密にとってとても恐ろしいことだった。じゃあ不安定なものは、どうなるっていうんだろう!
「ここにいる生き物は、もうどこにもいないの?」
 質問というよりは、どうか助けてくれ、が溢れた言葉だった。説明文から顔を上げ、誉が振り向く。
「ああ、ここにいる生き物はもうどこにもいない」
 絶滅したよ。事も無げに誉はそう言ってみせた。
 裏切られた気分だ。アリスはいつだってオレを助けてくれるはずなのに! 自分勝手だとは分かっているのに、求めているのは昔も今もこれからも、確かに存在するという保証だった。密は「......そう」とだけ呟き俯いた。
 そんな密を見て、しかし──と誉は言葉を続ける。
「確かにここにいる生き物はどこにもいない。けれど探せばどこにでもいる」
「どういうこと?」
「姿を変えて我々と共に生きているのだよ。ティラノサウルスは頑丈な顎と鋭い歯を失った代わりに、空を駆ける自由を手に入れた」
「よくわからない」
「ふふ、私たちだって彼らの生まれ変わりかもしれない、ということだよ」
 君は記憶を失ったが今の居場所を手に入れた。それも立派な進化だと思わないか? そう微笑む誉に、記憶を取り戻したらそれは退化なのかとか、そもそもの進化の基準だとか、聞きたいことは山ほどあったけれど、これは彼なりの気遣いなのかもしれないな、と気がついて密は顔を上げ、誉をちらりと見やった。誉は目を細めて微笑を浮かべていた。完璧な微笑みだった。いつか見たモナリザみたいだ。しばらく目を合わせていた二人だったが、やがて密が視線を外した。諦めたのだ。
 どうやら自分たちのご先祖様らしい巨大なトカゲに、密は心の中で愚痴った。あんまり進化し過ぎるのも、小さくなり過ぎるのも良くないと思う。目の前の男の考えていることが、オレにはてんで分からない......。
 ちょっぴり二億年前が羨ましくなった密は、展示室を出た土産屋で、誉に「これ欲しい」とティラノサウルスのぬいぐるみを押し付けたのだった。

 あんなに待ち時間があると思っていたのに、科学館というのは案外面白いもので、あっという間に投影の午後六時だ。リクライニングソファーに深く腰掛け、君が寝てしまわないかだけが心配だとぼやく誉に、「大丈夫、だと思う。多分」と半ば自分に言い聞かせるように返事をして、密は半球の空を見上げた。人工の空は白くて、小さくて、無機質だ。これでもプラネタリウムの中では最大級の大きさだというのだから、現実の空の大きさは計り知れない。密は恐竜に続けて、プラネタリウムの空もちょっぴり羨ましくなった。
 ──これくらい単純なら良かったのに。広い世界で生きる密が知っていることなんてプラネタリウムの空よりももっと小さくて、限定的なのだ。だから時々、ひどく不安になる。
 間も無く上映が開始します、とアナウンスが入る頃にはほとんど満席に近い状態で、誉のテンションも最高潮だ。天井に星を映す前にも関わらず、瞳には既に星が輝いているので呆れてしまう。やがて上映開始のブザー音が鳴り響き、人工の空は夕暮れを迎えた。現実の数倍の速さで日が沈み、月が登る。あたりはすっかり夜になった。
「本日はようこそ、当館へ。さて、早速ですが今日は七月七日──言わずと知れた七夕ですね。それにちなんで、今日の上映テーマは七夕。織姫、彦星伝説を振り返りつつ、天の川の正体、天の川銀河についても触れていきましょう」
 さっきまでは愛想のなかった半球に星が瞬き始めると、途端現実の夜空をはるかに上回る美しさなのだから驚きだ。天体観測に月は邪魔だから、という至極勝手な理由で月は消されていた。これは良いな、と密はまたプラネタリウムを見に来ようと決意した。現実の月が消せるならそれは幸せなことだけれど、隣の詩人がうるさそうだ。
「今皆さんにご覧いただいているのが、今日の東の空となります。天の川が綺麗ですね。本来はこのような夜空を見ることができるはずなのですが、この時期はあまり天候に恵まれませんし、最近では夜になっても明るい場所が多いので......。残念ながらこれくらい綺麗に見える場所は限られてきます。例えば、山の上とか」
 誉が隣で「山に行くのもいいね」と囁いたので、適当に頷いておく。存外出かけることが好きらしいこの男は、比較的自由な職種という権利を活用し、夏を満喫する気でいるのだ。二十七歳にもなって世界への好奇心は留まるところを知らないらしい。そしてその好奇心、──誉に言わせれば飽くなき世界への探究心──それに付き合わされるのは大抵密だ。密からすれば不思議なことだった。
「さて、この天の川を跨ぐようにしてとりわけ目立つ三つの星がありますね。これがいわゆる夏の大三角。白鳥座のデネブ、こと座のベガ、それからわし座のアルタイル」
 解説に合わせて夜空の星々に線が引かれ、繋がっていく。夜空には巨大な三角形があることを三角は知っているのだろうか。寮に帰ったら教えてあげよう。密がそう思っているうちに、それぞれの星座にイラストが添えられていく。ただの点と線だったそれに肉付けがされると、なるほど、確かにそう見えなくもない。古代人というのは想像力が豊かなことだ。もしかしたらみんなアリスみたいだったのかな、と少しだけ想像して、密はげんなりした。
「今日の主人公はこのこと座のベガ、それからわし座のアルタイルです。ベガは織姫星として、アルタイルは彦星として有名です。ご存知の通り、七夕伝説では織姫、彦星は離れ離れの恋人として登場します。ここで七夕伝説を振り返るのもいいですが、今日はもう少し専門的な話をしましょう」
 なんたって、大人のプラネタリウム鑑賞会ですからね。ははは、と解説員は笑ってみせた。大人だから、少し難しい話をするらしい。大人は色々なことを知っているから。知識があるから。──じゃあ自分は子供かもしれない。密にとって大人の定義は難しい。
「織姫と彦星が一体どうして一年に一度しか会えないのかというと、二人を天の川が隔てているからです。天の川とは星の集まりである。これは有名な話ですが、詳しく言うなら、私たちが目にする天の川とは銀河のことなのです。地球を飛び出し、外から天の川の正体を見てみましょう」
 解説員の説明に合わせるように、星が近づき、密たち観客は空に放り出される。高度はぐんぐんと増して、遂に地球を飛び出した。宇宙空間から見る地球は青く美しい。
「これが我々の住む地球。太陽系にある、美しい水の惑星です。太陽を中心とするこの太陽系は、ある銀河に属しています。それがこの天の川銀河なのです」
 さらに地球から離れると、白いどら焼きのような形をした星の集団が現れた。これが銀河というものらしい。「地球はこの位置にあります」と解説員が赤い丸で示した。随分隅の方にある。
「もうお気付きの方もいるかもしれませんね。私たちが普段天の川と呼んでいるものは、我々の所属する天の川銀河の中心とその周辺部分なのです。宇宙にはこのような銀河が数え切れないほど存在しています」
 密は地球を思い浮かべる。大きい。次に太陽を思い浮かべる。もっと大きい。それから地球も太陽も他の星々をも抱える銀河を。もっともっと大きい。それで宇宙は、その大きな大きな銀河を数え切れないほど持っているらしい。途方も無い。
「太陽系とは天の川の中の、点のように見える星の一つに過ぎません。天の川銀河の中に、太陽系のような集団はいくつもあるかもしれないし、その銀河自体も数多く存在する。そう考えると、人間以外の知的生命体の存在もいたって現実的なものなのです。宇宙の広さとは計り知れません。今この瞬間にも宇宙は広がり続け、新たな星が生まれているのです」
 ただでさえ大きいのに、さらに大きくなるというのか。密は軽い目眩がする思いだった。目の前のことだけで精一杯だ。
「途方もなく広い宇宙で、皆さんは人と出会い、そして共に生きている。これはとっても素敵なことです。ほとんど奇跡と言って違いない。そう思うと、人生とは奇跡の連続だ、そう思えませんか?」
 奇跡、奇跡か......。
 密がこっそり隣を見ると、誉が涙を流していたので、慌てて視線を宙へと戻した。静かに泣く誉はあまりにも綺麗だったので、見てはいけない気がしたのだ。
「さあ、長かった宇宙の旅を終えましょう」
 密が混乱しているうちに解説員はまとめを終えて、密たちはあっという間に地球に連れ戻され、科学館の一室の、無機質な白いドームへと帰ってきた。本日はどうもありがとうございました、のアナウンスが流れ始め、観客たちがわらわらと出口へ向かっていく。
「アリス」
 密が声をかけると、ぼんやりしていた誉はああすまない、と立ち上がった。泣いていたの、と触れるべきか否か迷っている間に、「さあ、帰る前に天文コーナーを見に行こうじゃないか!」と誉が歩き出してしまったので、密はうん、とだけ言ってプラネタリウムを後にしたのだった。

 天文コーナーは星々の写真と、地球の模型、様々な美しいもので溢れていた。しかし中でも誉が熱心に見ていたのは、衛星という四角い箱の模型だった。
「それが好きなの?」
 誉ならもっと、目に見えて美しい写真に興味を示しそうなものなのに、と密が尋ねると、誉は「今日の話を聞いて、衛星が好きになったのだ」と答えた。
「どうして?」
「以前は広い宇宙の中で重力に縛られ、永遠と地球の周りを回り続ける存在は、我々に似ているように思えて、好きになれなかったんだがね。でも今はこの衛星が愛おしい」
「アリスは、いつも難しいことばっかり」
「前は、どこまでいっても我々は孤独なのだと思って好きになれなかった」
「アリスは孤独なの?」
「いや、それは違うと気づいた」
 誉が満足げだったので、「それはよかった」と密が言うと、「君たちのおかげだ」と誉は笑った。
「今日は得るものが多かった。密くん、よかったらまた私と出かけてくれないか」
 一通り展示物の説明を読み終わった誉が出口に向かおうとすると、密が立ち止まったまま動かないので、誉は不思議に思って、「密くん?」と呼びかけた。
「......ねえ、アリス。ほんとはね、オレは今日、少し怖くなった」
 立ち止まったまま、密は告白した。
「それは、どうしてだい?」
 誉は優しく問いかけた。
「同じ人間で、同じ時代で、すぐ隣で生きてるのに、オレはアリスのことが全然分からない」
 そうやってるうちに、俺もアリスも死んじゃう。恐竜みたいに。広い広い宇宙空間の中で、人間なんてあっという間に寿命が訪れて、少しだって分かりあえずに進化の一部に組み込まれて、個人なんて消えてしまう。密はぽつりぽつりと言葉をこぼした。悲痛な叫びだ。
「......以前ね、私もそう思い悩んでいたよ」
 人の心が分からない。壊れたサイボーグ。いつかの自分を見るように思えて、誉は微笑んだ。
「でも気がついた。孤独な衛星は無数にあって、時折衝突を起こす。それがきっと出会いだ」
 誉は暗い展示室で立ち止まったままの密の元まで歩み寄った。
「私も君のことが分からない。きっと一生かかっても君を理解することはできない」
「アリスはそれが怖くないの?」
「怖くないと言ったら嘘になる。いつか私の言葉で、君が離れていってしまうかもしれないと思うと恐ろしい。しかし、理解できなくてもいいんだと気づくことはできた。私は君の考えを想像することならできる」
「公演の時もそう言ってた」
「ああ」
 そのまま誉は密の手をとって、出口に向かって歩き出した。密もそれに続く。
「つまりね密くん、相互理解とは幻想に過ぎず、それはただ誤解の総体でしかないらしい。......それでも私は君を分かりたい、そう思うのだ」
「どうして?」
 一生かかったって理解できないと言ったのに。密が言外にそう責めると、誉は立ち止まって振り向いた。──つくづくこの男は笑顔が似合うな、と密は思った。
「それはね、私が君を愛しているからだよ」

 タクシーで寮に帰ると、それはそれは立派な笹が中庭にあった。一成から短冊を受け取って、さあ一体何を願おうかと誉は思案する。
「密くんは一体何を願うんだい?」
「俺は......」
 ちょいちょいと手招きをされたので、誉が耳を近づける。誰にも言っちゃダメだよ、と注意してから密は続けた。
「俺はね、進化して生まれ変わって、そこが地球じゃなかったとしても、姿形が全然違ったとしても」
「うん」
 誉は頷いて先を促した。
「アリスと衝突できますように、ってお願いする」
 一年に一回の衝突なんて、俺は嫌。
 ──それは随分詩的だね、と誉は笑った。


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