観覧車は青空を飛ぶか

2018年06月01日

『おそ松さん』二次創作小説 一カラ 2016年4月頃

カラ松くんが空を飛ぶと言い出す話


「俺は空を飛ばなくちゃいけないんだ」
 松野カラ松はいつになく真面目な顔で、一人そう宣言した。松野一松はその気だるげな表情を変えることなく、「は?」と一言、実の兄の飛行宣言に感想を寄越した。今この部屋にはカラ松と一松以外の誰もいないので、カラ松の宣言は独り言、もしくは一松に向けてのものということになる。カラ松はあれで案外寡黙なところがあるから、独り言という可能性は却下。自動的に一松に向けての宣言になる。無視しようか迷ったけれど、一松は基本的に律儀な男だ。突発的な意味不明の宣言にも反応してやる優しさを持っていた。しかもカラ松に対しては専用のアンテナでもあるのかと疑いたくなるほどに過敏な反応を見せるのだから、結局いつもカラ松の言葉を拾ってやっているのだが、一松本人は無意識だった。
 けれど今回一松が返答を逡巡したのは、全くもってカラ松の意図が掴めなかったからだ。だってここは夢見る学生の通う学校ではないし、飛行場でもない。平日の昼間にも関わらず成人男性の巣食う実家の居間に他ならない。
 影響されやすいカラ松のことだから、何かの自己啓発本でも読んだのかと勘ぐるが、どうやら違うらしい。空の素晴らしさを語る啓発本はおろか、見慣れた鏡すら手にしていない。カラ松は何も持っていなかった。それが逆に、一松の不安を煽った。
「とうとう頭おかしくなったのかクソ松」
「な! 酷いぞ一松! 俺は真面目に言ってるんだ」
「だっていきなり『空を飛ばなきゃ』なんて言われても......。普通正気を疑うでしょ。この年齢から専門校通い? 無理無理。大体お前、飛行士になるのってどれだけ大変かわかってんの?」
 とっととそんな夢諦めた方が良い。そう続けようとして、一松はカラ松の怪訝な表情に気がついた。
「......専門校? 飛行士?」
「......何。別に俺、当たり前の事しか言ってないと思うけど」
 そんな表情をされると、何か自分がおかしなことを言ったような気がしてきて、居心地が悪かった。飛行士、飛行士と繰り返しながら腕を組み、カラ松は首を捻っていた。カラ松が人より会話のキャッチボールに時間がかかるのは知っていたから、急かそうとするのをぐっと堪える。一松は存外真面目なのだ。
 そうしてしばらく唸っていたカラ松だったが、ややあって「あぁ!」と納得したようだった。マジックの種がわかった時みたいに、にやにや笑っている。なかなか腹の立つ顔だ。
「一松、お前勘違いしてないか?」
「勘違い?」
「俺はな、一松。なにも飛行士なって空を飛びたいわけじゃないんだ」
 そこでカラ松は一息ついた。答えを勿体振るみたいにたっぷり三秒おいてから、カラ松はこう言った。
「俺はな、鳥みたいに己の力だけで自由に空を飛びたいんだ」
「......はぁ?」
 本日二回目になる台詞だったが、今度こそ一松は心底呆れるしかなかった。
 何度目かになるカラ松の悲鳴を聞きながら、一松はため息をついた。鳥のように空を飛びたいだなんて、子供じゃあるまいし。
 あの宣言の日以来、カラ松は本気で空を飛ぼうと画策しているらしく、窓から飛び出したり屋根から飛び降りたり、幾度となく空を飛ぼうと挑戦し続けていた。しかし一松の知る限り、それは一度も成功していない。......いや、成功するはずがないのだ。人が空を飛ぶためには最低七メートルから八メートルの羽が必要だと聞く。今のカラ松にはどう見たって羽なんて生えていなかった。当然だ。カラ松は鳥人間でもないし天使でもない。松野カラ松は松野家に生まれた六つ子の次男で、松野一松の二つ上の兄だ。特殊な能力など持ち合わせないただの人間である。一松は猫になれるのだけど、カラ松が鳥になれるなんて見たことも聞いたこともない。となると、今後カラ松が空を飛ぶには、特殊能力に目覚めるくらいしか方法は無いのだ。
 もしくは、天使になるか。
 そこまで考えて、いやいやいや、と自嘲する。天使なんて生身で空を飛ぶよりもっと非現実的である。松野一松はこれでも結構真面目だった。二十歳を過ぎてなお無職を貫いていることを除けば、一松は至極まっとうな、一般常識を兼ね備えて生きている。はっきり言って、一松は兄弟の中で一番まともだった。本気を出せば誰よりも世間に順応できるだけの感覚と、世間一般から見てもなかなか聡明な頭脳を持っている。ブラック工場に就職しても、簡単に上り詰めることができるくらいに。松野一松は案外器用な男だった。
「ふっ......戻ったぜブラザー」
 襖が開いて、ぼろぼろになったカラ松が部屋に帰ってきた。襖を閉めるのにも身体が辛いと見えて、カラ松の手は痛みからか震えていた。痣だらけのその身体が、頭から流れる血が、生々しくて痛々しい。見ていられなかった。一松はとっさに目を逸らす。何か別のことを考えようと努めて、痛いよね〜! と叫ぶトド松を思い出した。口にはしないけれど、カラ松のファッションをなかなかどうして、一松は気に入っていたので、イタいイタいと騒いで笑う兄弟達に同調することはあまりなかった。けれど、今回は本当に、痛いと思う。無論物理的な意味で。でもこれって、笑えなくない?
「......もう、諦めたら」
「いや! 俺は一度決めたらやり通す男だぜ。明日は今日よりも快晴みたいだから、きっと上手くいくさ」
「天候とか、そんな関係してくるとは思えないけど」
「そうか? 真っ青な空なら、きっと飛べるさ。青は俺の色だから」
 そう言ってカラ松は口元を緩めた。カラ松は根拠のない信頼が得意なのだ。どうやらそれは世間では優しさと評されるらしい。一松はその根拠の無い信頼が大嫌いなのだけれど。失望は何よりも恐ろしい。勝手に期待して勝手に落胆するくらいなら、初めからそんなものはいらない。『信じている 』なんて結局ただのエゴじゃないか!
 カラ松がここまでぼろぼろになっているのを一松が見るのは、実は初めてではなかった。カラ松は兄弟の中でも誰より怪我をしやすく、死んだ回数も多かった。一松だって何度か死んでいる。しかしカラ松とは桁が違った。カラ松は死に愛されている。それも過剰なまでに。
 カラ松よりは少ないが、人よりは多い一松が死んだ経験の中で、もっとも印象に残っているのははフグが原因のときだ。そのときは一松だけでなく、カラ松はもちろんのこと、我らが長男までもが死んだ。死とは対極に位置するような主人公も巻き込んで、松野家は仲良く一家全員であの世に旅立ったのである。
 しかし遺体からテトロドトキシンが検出される前に、一家全滅したはずの松野家は何事もなかったように復活した。気がついたら日常の一ページに戻っていたのだ。当たり前の法則を無視するように、さも当然のように六つ子は遊びまわっていた。あれ、そう言えば僕たち死んだんじゃなかったっけ? 誰かがそう言いだしたのをきっかけに家に帰ると、家族全員自分が死んだことは覚えていた。しかしだからと言って気にすることはなかった。生きてるならいいじゃん。結果オーライ。ギャグに人の死なんて似合わない、そうだろう?
 したがってこの世界の住民にとっては、人の死などあってないような問題だった。だってギャグだし。ギャグなら大抵のことは赦される世界だ。
 でもそれが、ギャグなんかじゃない本気で望まれた死だったとしたら? 例えば自らが本気で望む死なんてどうだろう。その死によく用いられる方法は、高い場所から飛び降りる、というお手軽なものなのだけれど。
「青いから飛べるってどんな理論なの。サイコパスだよ。......本当にお前は、青が好きなんだな」
 青は確かにカラ松の色だった。いつの間にか付属された個性についてきた、おまけみたいなテーマカラー。見分けやすくて実用的だ。なにせ同じ顔が六つもあるのだから、視覚的に一瞬で個体を判別できるのは実に便利である。実験用のマウスをタグで見分けるみたいに、学生時代なんかは、色で見分けられるのが常だった。ちなみに一松の色は紫なのだけれど、一松は紫色があまり好きではなかった。ほら、なんだか紫色って毒々しいし。そもそも兄弟を色分けすること自体、一松にとっては好ましいことではなかった。六人で一つなんて地獄めいた呪文が実はかなり気に入っていたから、一つ一つに明確な区切りをつけるのには急に好物を取り上げられる時のような、そんな不愉快さがあった。
 それでも一松は、テーマカラーによる判別も紫色も嫌いだったけれど、青色は好きだった。青は空の色だ。真っ直ぐ突き抜けるような爽やかさを持っている。青は海の色だ。全てを包んでくれるような。それはカラ松によく似合う色だと思う。本当に、青はカラ松によく似合う。
「ああ。青色は好きだ」
「そう」
 海の青色はもともと空の青色が反射しているのだという。海の中に青色の光は入ることができずに、跳ね返されたそれによって、海は青色に見えるらしい。海は青く見えるのに、そこに青は含まれていない。皮肉な話だった。
 一松は想像する。あの日、松野カラ松が死んだ日。カラ松は海に放り出されたと聞く。そのときカラ松は海に拒まれたのだ。馬鹿正直に青いと信じていた海は、きっとカラ松に冷たかった。青いはずの海は青を拒むのだから。
 もしかして空を飛ぶと言い出したのも、それがあったからではないだろうか。空ならば青は拒まれない。空を飛ぶには特殊能力に目覚めるか、それとも天使になるか。簡単な話だった。一松が天使になるのは難しくても、カラ松はきっと簡単に天使になれる。いるかわからない神様からもきっと祝福されるだろう。なにせ常に世界平和を祈っているような男だから、人間に生まれるよりも天使に生まれたほうがよっぽど生きやすかったに違いない。残念ながら人間に生まれてしまったカラ松だったけれど、天使になる方法はあった。死ねばきっと簡単に天使になれる。
 ところで松野一松には致命的な欠点があった。常識を兼ね備えた聡明な頭脳を持っているのに--あるいはその聡明さ故に--一松が社会不適合者であり続ける理由。
 松野一松は酷く臆病だった。いつだって最悪なパターンを想定することを忘れず、その最悪がどんなに現実離れしていても、一度始まった妄想は止められない。転がり始めた観覧車が簡単には止まらないみたいに。一松は常に喪失を恐れていた。大切なものならば一層。今回もまた夢と希望の遊園地の象徴だった観覧車の車軸が外れて、巨大な車輪もとい殺戮兵器と化して夢と希望を押し潰していく。止められる人なんて誰もいなかった。そもそも一松自身がこの事故に慣れてしまって、今現在恐ろしい勢いで観覧車が暴走しているのに気がついていない。むしろこの暴走事故が起こるまでのワンセットが、観覧車という一つのアトラクションだと認識している節がある。
 カラ松は無意識下に死を望んでいるのではないか。
 そう思い始めると、カラ松の行動にも説明がつく気がして一松は泣きそうになった。原因はやっぱり、あの日、誘拐されたカラ松に石臼を投げた日、繰り返してきた死の中で初めて兄弟に直接手を下されてカラ松が死んだ日ではないだろうか。あれってかなりショックなはずだ。一松だったらとっくに鬱になっている。
 空を飛ぶなんて口実で、何度も何度も飛び降りて、そのまま生き返ることがないようにと望んでいるのではないだろうか。
 青空に吸い込まれて、そのまま溶けて消えることを望んでいるのではないだろうか。
 そういえば空を飛ぶと言い出す前も、カラ松はよく空を見上げていた。時に窓から、時に屋根の上から。本当はもっとずっと前から消えてしまいたいと願っていたのではないだろうか。
 カラ松を追い詰めたのは僕だ。僕がカラ松を殺した。
 一松には致命的な欠点があった。その真面目さ故に、この世界に適応して生きていくことができないのだ。簡単に人が死ぬこの世界に。一松は何事も深く深く考えて、自責の念で己の首を絞める。常に酸欠で生きていくのは難しいし、それにとても辛い。これは一松が自分に課した罰だった。熟考を重ねた脳内裁判の結果だ。この一人裁判はいつから始まったのだろう。裁判官も傍聴人も、もちろん被告も自分自身の狂った裁判だ。心のどこかで赦しを求めているからこそ始まった裁判だ。それが赦されることは一生ないだろうけれど、脳内裁判は毎日のように繰り返されている。それがただの思い込みの延長だと一松は気がつかった。慣れって恐ろしい。何十年とそんな思考をしていると、思い込みかそうでないかなんて一切の判断基準が失われてしまってどうしようもない。
 一松は六つ子の区別なんて欲しくなかった。昔みたいに、六人で一つでありたかった。一つの生物の中の、一つの器官であり続けられたらどんなに楽だっただろう。今ではどうだ。六つ子だというのに、お互いの考えていることなんて一切分からない。六分の一だったのは昔の話、いやもしかしたら最初から個は個のままだったのだ。悲しいほどに、誰もが一人の人間だった。
 だったら、と一松は泣き出しそうになりながら思う。だったら好きになったって仕方がないじゃないか。考えていることなんて分からない、ただ顔だけはそっくりな、血の繋がった別の人間を愛することは罪だろうか。一人っ子が良かったとおそ松はよく愚痴っているが、まったく一松も同意であった。六つに分裂なんてせずに、そのまま六人一つとして生まれられたのなら、それは理想だと思う。思考を共有して、身体を共有して生きていけたら。そうしたら一松がこんなに苦しみながら生きることもなかったのに。
 松野一松の裁判が繰り返される毎日は、実の兄への思いを自覚したその日から始まっている。最近なんだかますます一松の元気がないように見える。一松はもともと考えすぎなところがあるから、また何か思いつめているのだろう。カラ松は屋根の上で紫の弟を思う。今日は予報どおりの晴天だった。やっぱり今なら飛べる気がする。
 空を飛ぼうと思い立ったきっかけは単純で、死んでも元に戻るのなら、空を飛ぶくらいできるのではないかと思ったからだ。この世界は秩序なんて無視して、各々が好き勝手して成り立っている。だったら空を飛ぶことくらい、簡単なことなのではないだろうか。カラ松の思考回路はとっても単純だった。ならばまずはやってみようと、とりあえず高い場所から飛び降りてみることから始めたが、なかなかうまくいかない。しかし諦めるつもりはなかった。カラ松はどうしても青空を飛んでみたかったのだ。
 青空は青色の光と紫色の光が飽和して作られているという。紫色の光はあまり感じられないので、人間にはほとんど見えずに結果的に空は青く見えるらしい。難しいことはよく分からないけれど、青と紫で満ちた空を飛ぶことができたら、それはすごく素敵じゃないか。カラ松の思考はびっくりするくらい単純だ。願わくば、一松と一緒に空を飛びたいと思った。紫は一松の色だから。一松が素直に一緒に飛んでくれるとは思えなかったけれど、そのときは頼み込むつもりでいた。何だかんだ言って一松が優しいのを、カラ松はちゃんと知っている。
空を飛べるようになったカラ松が、一松を抱えて一緒に青と紫で構成された青空を飛ぶ。この理想の実現のために、カラ松は今日も努力している。もし空を飛べたらきっと一松も元気になるはずだ。
 そしてこれは絶対に言えないことなのだけど、もしも叶うのなら、青空に二人で一緒に溶けてしまえたらいいとカラ松は密かに祈った。


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