アンドロイドは檸檬の代わり
『A3!』二次創作小説 密誉 2017年12月31日
「ワタシの言葉、大切にしてね」
アンドロイドの密くんが氷を溶かさないように頑張る話
ボッ、と音を立てて、御影密の背後で枯れ草が発火した。小さかった種火は徐々に大きくなり、やがて燃えるだけの材料さえもなくなると、黒い煙を出して消える。からからに乾燥した空気に、照りつける太陽が容赦なく降り注ぐから、燃えやすいものはみんなこうなるのだ。ゆらゆらと遠くで陽炎が揺れる。作り物の汗が頬を伝うのが鬱陶しかった。長い前髪が顔に張り付く。
密は、こんな所まで人に似せなくても良かったんじゃないか、と思っていた。温暖化を予想した科学者によって、暑さにはめっぽう強く作られているのだ。だったら熱を下げるための生体反応まで付属する必要があったのか、密には甚だ疑問である。元にこんな環境でもケロリとしていられるのだ。
見渡せば至る所で炎が上がり、煙があたりに充満していた。そこらじゅうの一酸化炭素が、辛うじて生き残っていた生物の命を容赦なく奪っていく。不明瞭な視界の先に見える小さな光というのは尽く何かが燃える姿なのだ。地獄だった。
こんな光景にも密はすっかり慣れてしまった。故に、再びすぐ後ろで燃え始めた草にも、ちらりと一瞥を寄越すだけに留める。ここも、そろそろ限界だ。そんなことを考えながら、密はひたすらに、北を目指す。
人類の文明が死んで、もう何年になるだろうか。あまりに長い時を生きているから、密には分からなくなっていた。肩に引っ掛けた合成素材のロープを握り直す。ロープは密の希望が詰まった、大切な大切な、中身の割に重い棺に繋がっているのだ。
密の正体が記録用アンドロイドだと判明したのは、もう五千年近く前になる。つまり、密は五千年以上も生きているのだ。浦島太郎もびっくり! なんと言っても五千年である。途方も無い時間だ。自身の正体を知らなかった当時の密はというと、劇団員としての生活を記録するために派遣され、寮に入り、記憶喪失の男性として暮らしていたのだった。
劇団員としての日々を、密はとても楽しかったものだと記憶している。自身の正体を知らなかった為、というのもあるけれど、最も人間らしく幸せな生活した時期だ。
喜怒哀楽を伴う、他人と寄り添って生きることは難しくて、それ以上に得るものが大きかった。一日一日が濃密で、かけがえのないピースなのだ。何でもない日常というものが、何よりも尊い。
だからこそ、劇団員として生活し始めて数年後のある日、データを回収する、と言ってやってきた自称アンドロイドから逃げ出した。数年間の人間界への潜入を経て、高性能の記録用アンドロイドは一人の人間、「御影密」として生きていくことを決めたのだ。そして、その数年間を共にした同じ劇団に所属する人間もそれを応援した。
開発元とかなりの悶着があったのは言うまでもない。しかし、周囲の協力によって乗り越えられた。密のいた場所というのは、とても優しい世界だったのだ。転がり込んできた男の正体を知って尚、変わらず「御影密」として接してくれるような、そんな人たちが集まった場所だった。
当時を密が最も幸せな時間、と形容するには、もう一つ理由がある。その頃密には恋人がいたのだ。詩人を職業とする男性だった。密も一応性別は男性ということになっているみたいだけれど、そんなことは些細な問題だ。二人は正真正銘愛し合っていた。天才でも恋をするのだ。況んやアンドロイドをや、である。
密の恋人は天才と称されるような人間だった。けれど、意外なことに死因は老衰だ。天才は短命と言われるものだけれど、彼は随分健康で長寿だった。密の恋人は生涯に渡って言葉を紡ぎ続け、それはそれは立派な文学者の一員として歴史に名を刻んだのだった。肉体が滅んだところで、彼の言葉は不滅だった。突飛で理解できないような彼の言葉は、変わらずあの頃と同じように、世界の誰かを救い続けていた。彼の本は著者の死から約五千年後、人類が滅亡するその瞬間まで書店に並んでいたのだから。
──そう、人類は滅亡した。否、正確に言うのなら、地球から消えた。
だからこそ、密はたった一人、途方もない距離を歩き続けているのだ。
密と恋人のささやかな幸せの時間が終わって、劇団の人間が十回程入れ替わった頃。地球の温暖化は既に深刻な問題だった。その頃にはもう天気も国の環境庁によって管理されていた、というのが密の記憶である。結果として自然災害はかなり減った。農業生産もすこぶる安定し、食糧難も減った。人類はとうとう、長年にわたる自然との戦いに決着をつけたというわけだ。密も安くマシュマロを手に入れられるようになり、大変満足だった。
しかし劇団の人間が二十回程入れ替わった頃、事態は急変する。忘れもしない、密はそのニュースを、安く購入したマシュマロを食べながら見たのだ。
「ご覧ください、巨大な台風です! 台風が発生するのは実に五百年ぶりのことです。各国は対応に追われています。先程国際気象管理センターが調査に乗り出した、との報告がありました。このままでは赤道付近の国々への直撃は免れないと見え、首相は『被災地への支援を早急に行う』との方向を──」
ニュースキャスターは現地から送られてくる映像を見て叫ぶようにまくし立てた。スタジオに呼ばれた専門家は難しい顔をして「信じられません」と繰り返すばかりで進展がない。クレームが殺到しそうな、お粗末な番組構成だ。けれど仕方がないだろう。密は同情さえした。
それもそのはず、この台風は何もかもが想定外だったのだ。密の知る台風は、あんな大きさをしていない。一国をまるまる覆ってしまうような巨大さ! スタジオの中央にある、バーチャルの小さな地球の上に表示された台風は、まるでドーナツみたいに大きな穴を持っている。台風の目がくっきりと浮かぶほどだから、その大きさたるや尋常ではない。宇宙センターから送られてきた映像には、子供が落書きでもしてしまったように、白く渦巻く巨大な雲が映っていた。冗談みたいな大きさだ。設計ミスに等しい。
科学者たちの予想通り、台風は赤道付近の国々に致命的なまでの被害を与えた。家屋の倒壊、全てを飲み込む濁流。死傷者の数は計り知れない為に不明。しかしそれだけでは終わらなかった。台風は勢力を失うどころか、ますます、より一層の力をつけて北進していったのだ。そしてその進路には、なんということだろうか、原子力発電所が存在していた。
災害と原子力発電所とは恐ろしい組み合わせだ。人類は長い歴史によって、それを十二分に学んでいた。だからこそ、発電所を地面から浮かせることで地震の影響を受けないようにする技術が開発されたのだ。しかし、台風においてはそれが裏目に出た。信じられないほどに勢力を拡大した台風は、あろうことか発電所を空へと連れ去ったのである。
そこからはもう、最悪だった。空へと吹き飛ばされた原子力発電所は、まるで蹴り上げたボールのような放物線を描き、落下した。五千年前の悪夢よりもっと酷かった。優れた管理社会というのは、いっそ悲しいくらい想定外の事態に弱い。
こうして、赤道付近の国々は壊滅しただけでなく、そこに住む住民たちは故郷を追いやられることとなった。紛れもなく人類史上最悪の自然災害だった。
五百年ぶりに発生した、この悪夢のような台風は特例とも思われた。けれど、その後も大規模な台風は発生し続けた。その度に人類史上最悪の自然災害は更新されていく。
かくして人類は大損失を被った。麗しの建造物、何より麗しの人命。抑圧され続けたここ数百年を取り戻すかのように、自然は人類に牙を向いたのだ。
台風の異常発生と一緒に、今度は急激な気温の上昇が起こった。密の記憶では、この時点で人類の総数はかなり減っている。気温の上昇による干ばつで引き起こされた、食糧難やら何やらだ。気温はぐんぐん上がっていって、海面は毎日のように上昇していった。日本の水域に重要らしいナントカやら、貴重なサンゴでできたカントカやら、とにかく色々な島が沈んだ。それでも気温は上がり続ける。容赦なんて全くない。
これまでの異常気象は、正直言ってアンドロイドである密にとってはほとんど関係のない話だった。密は空気が澱んだって平気だったし、食事をせずとも生きていける。けれど、今回の異常気象。気温の上昇というのはかなりまずかった。この気温の上昇のせいで、密は馬鹿馬鹿しいような理由を抱えて、北に向かっているのだ。
さて、御影密の話をしよう。御影密がアンドロイドである、と判明したのは先述の通り。ここでは彼の、一番幸福な時間が終わった瞬間と、何よりも大切にしている宝物の話をしたい。
五千年以上に及ぶ、密の長い長いアンドロイド生で、恋人と形容される存在はたった一人だった。件の、詩人の男性である。名を有栖川誉と言う。繰り返すけれど、彼は天才詩人として世に名を残した男だ。もちろん、ずっと前に亡くなっている。彼は自身を「壊れたサイボーグ」だなんて形容したこともあった。しかし正真正銘ただの人間だ。密とは違って老いていくし、寿命があった。
密は記録用アンドロイドとしてではなく、他でもない有栖川誉の恋人として、短いその日々を、一片だって残さないように記憶した。いっそ忘れてしまえたらどんなに楽だろう、そう思うことがあるくらいに、幸せだった日々を完璧に覚えている。くだらない会話の一つ一つだとか、二人で暮らし始めて、初めて行ったスーパーの帰り道だとか。だから、何より最後の瞬間というのは、今まで記録してきたどんな出来事よりも鮮明に思い出すことができる。
この最後というのが、御影密の馬鹿馬鹿しい「北を目指す理由」に大いに関係しているので、ちょっと説明しておきたい。
◇
「密くん」
真夜中に溶けるような音だった。密は何となく夜遅くまで起きていて、さぁそろそろ寝ようか、と寝室に戻ったところだった。とうに眠ったものだと思っていた誉が声を出したものだから、密は随分驚いたのだ。
「寝れないの?」
「いや、少し喉が渇いてね。すまないが密くん、氷水を持ってきてはくれないだろうか」
誉はベッドから半身を起こしながら言った。老年の誉は足を悪くしていたので、日常的な細々としたことは密が代行していたのだ。
密はすぐに、「分かった」と返事をして台所に向かった。たっぷりの氷に、ミネラルウォーターを注ぐ。カラン、と鳴る音が心地よかった。小さな気泡が底から浮かび上がってきては、きらきら光っている。
密は少し悩んでから、蜂蜜レモンのスライスを一つ浮かべた。喉が乾いた、と言った誉の声が、なんだかカサついているように思えたからだ。喉を労わるのなら蜂蜜に漬けたレモンが良いのだ、と劇団コーチを務める丞が言っていた。
数回かき混ぜると、澄んだ水に閉じ込められた鮮やかな黄色が爽やかだった。ガラスのコップは二人で暮らし始めた頃に買ったものだ。もう随分一緒に暮らしているんだな、なんて実感が幸せだった。
「アリス」
「ああ、ありがとう。おや、レモンが浮かんでいるね」
「嫌だった?」
「いいや、嬉しいよ。ありがとう」
誉は少しずつ舐めるようにレモン入りの氷水を飲んで、おいしい、と微笑んだ。目尻の皺が深くなる。しばらく静かにコップを傾けていて、それから思い出したように、「そうだ」と口を開いた。
「密くん。人の生とは、長いようでいて短いね。言葉を生業にしているワタシですら、言葉にしきれなかった思いがたくさんあるのだから、他の人はきっと、もっと後悔をするのだろうね」
冷たいガラスのコップには、ビッシリと水滴が付いていた。やがて一筋、雫がすうっと伝った。誉はベッドのシーツにポタポタと水滴が垂れるのも気にせずに、ペンだこの目立つ指で曇ったガラスの表面をを撫でた。何か言い淀んでいるようだった。相手を傷つけない言い回しを考えているのだ。
「アリスは、後悔してるの?」
密の優秀な機械の脳と心は、誉の言葉から後悔を見つけ出した。密が真っ直ぐに、二十五歳から少しも変わらない顔で尋ねると、年齢を重ねて皺の刻まれた誉の顔はくしゃっとなる。よく笑う人だったから、こうすると一層深くなるほうれい線がチャーミングだった。
「していない。......と言ったら、嘘かもしれない」
「オレに手伝えることなら、何でも手伝う」
密は誉の言葉から、うっすらと終わりの予感を感じ取って、言った。文字通り、何でもするつもりだった。いつかこんな日が来ることを、密も誉も分かっていながら、あえて話題に出すような真似はしてこなかったのだ。いつだって、終わることに怯えていた。それは密の正体が判明してからも変わらなかった。仕方のないことだ。二人は根本的に、生きている時間が異なる。
「ありがとう。いや、これはね、ワタシにしかできないことなんだ」
誉は微笑んだ。
「キミに伝えたいことが、まだまだあるんだ。けれど、とても時間が足りない」
誉は寂しそうにそう言うと、密の渡したガラスのコップに祈るように額をつけた。コツ、コツ、と時計の針が進む音が響く。
密はいつだったか、午前三時に、自分が不変を願ったことを思い出した。残酷な話、この世界に不変はなかった。代わりに死は普遍だ。やりきれない。
誉はしばらくの間祈り、やがて氷がカラン、と音を立てたのを合図に、閉じていた目をゆっくりと開けた。若い頃よりも、ずっと深い色をした赤色の瞳が現れる。
「だから、この氷に、ワタシの言葉を閉じ込めることにするよ」
これが最後の言葉だった。おやすみ、と言って眠ったその翌日の朝、有栖川誉は亡くなっていたのだ。
目覚めて、密は呆然と、隣に横たわる冷たい温度に触れていた。穏やかな朝だった。カーテンの隙間から、絹のような朝日が差し込む。枕元のテーブルに置かれたガラスのコップを照らしだした。カラン、と音が鳴る。氷は未だ溶けずに残っていたのだ。
密は冷たくなった誉の頰と、その氷との温度が、非常によく似ていると気がついてしまった。涙を流すことよりも先に、ガラスのコップを冷凍庫に入れた。
それからというもの、密は何よりも、この氷を大切にしている。誉の言葉を閉じ込めたというその氷は、なんだか酷く澄んでいて美しい。密は馬鹿馬鹿しいと分かっていながら、その氷に執着していた。どんなに白い目で見られようとも、その氷を溶かすまい、密はそう決意して暮らしてきたのだ。だって、この氷には誉の言葉が込められているのだから。
初めは冷凍庫に、やがて冷凍金庫に。時代とともに、科学とともに、密の氷の保存方法は進化して行った。密は何よりも、このレモンの入った氷を大切にして、実に五千年の歳月を生きてきたのである。
ところが、急激な地球温暖化が起こった。異常気象は日常茶飯事になっていたから、密はほとんど気にしていなかった。けれど、温暖化。これはいけなかった。万が一にでも氷が解けてしまわないだろうか、と密は不安でたまらなかったのだ。
密がそんな心配をしていた頃、一方人類の心配はというと、このままでは地球に留まることは不可能である、ということだった。
だから、密が科学者に「氷を永遠に保つにはどうすれば良いか」を相談しに行った時なんて、まったくまともに取り合ってはもらえなかったのだ。
「はあ?」
「だから、氷を保存するにはどうしたら良いか教えてほしいんです」
科学者は露骨に嫌そうな顔をした。神経質そうな、銀のフレームの眼鏡の奥の目が細められる。彼には人類滅亡という最悪の事態を防ぐため、やらなければならないことが山ほどあった。こんな表情も仕方がなかった。つまり、気が触れたような依頼にかける時間はないのである。そもそも、世界最高峰の科学技術を結集したこの建物に、どうしてこんな眠たげな若者がいるのか。科学者には到底理解できなかった。
「というか君はどうしてこの建物に入れたんだ? なにかよっぽどの理由なのかと思えば、氷を保存したいだなんて馬鹿げている」
科学者は忙しそうに表示されたコンピューターの画面を見て、手元のタブレットにデータを書き込みながら言った。やはり気温の上昇は類を見ない速度で進んでいた。数年後、否、最悪数ヶ月後には人間が住んでいられるような状況ではなくなるだろう。
密はイライラしている科学者を、大変そうだな、なんて無感動な感想を抱いて観察した。そして、どうやら取り合ってくれるつもりが無いらしい、と察すると、やっと口を開いた。
「オレ、アンドロイドだから」
密の言葉に、科学者は眉を顰めた。
「アンドロイド? 戯れ言を。アンドロイドの開発は人権問題やらなにやらで何千年か前騒ぎになって禁止されたじゃないか」
科学者は呆れたように溜息をついた。帰ってくれ、というように手をひらひらさせる。密はムッとして再び口を開いた。
「オレがその、禁止の原因」
「......まさか」
科学者はやっと画面から視線を外して、目を見開いた。彼の言葉の通り、この発達した科学社会で唯一と言っていい研究の禁止内容に、アンドロイドの開発が含まれている。アンドロイドの人権を主張する団体と、それを認めない団体とで、社会を巻き込んだ世紀の裁判が行われたことは周知の事実だ。
概要はこうだ。何千年か前に、アンドロイドの身でありながら人間と恋をした個体が存在したのだという。当時の科学技術を結集した記録用アンドロイドだ。記録用アンドロイドの頭には脳の代わりに高性能のレコーダーが入っていて、彼らは人間として生活した後、そのデータを開発元に提供するという役目を負っていた。
ところが、件のアンドロイドはデータの受け渡しを拒否したのだ。当然開発側はそれを認めない。そして、開発した側と開発された側での奇妙な裁判が始まった。争点は心を持ったアンドロイドに人権を与えるか否かだった。当時はアンドロイドという技術も夢物語のように扱われていたというから、社会の注目度は容易に想像がつく。
上告、控訴。そして、迎えた最終局面。当時の社会が下した結論は、アンドロイドに人権を認めはしないが、特例としてこの一個体には人権を認める、というものだった。その個体の名前というのが、
「オレ、御影密。協力して。お父さんの後継者、って言えばいいのかな」
御影密というのだった。
「そうか......君が、あのアンドロイドか」
科学者は神妙に頷くと、「分かった」と言った。記録用アンドロイド、御影密といえば人類を誰より長く見てきた唯一の存在だ。御影人権訴訟裁判以来、心を持ったアンドロイドの開発は世界中で全面的に禁止された。科学者は協力する代わりに、此度の急激な気温上昇への対応を、人類を見守り、記録し続けてきたアンドロイドに仰ぐつもりだった。
「冷凍装置、と言ったね。我々は丁度その研究をしているんだ。その研究途中でできた失敗作なら好きなように使ってくれ」
二人は長い廊下を歩き始めた。コツコツ、という足音がやけに響く。
「君は現在の、地球の状況をどう思う?」
「......正直言って、分からない。長い間生きてきたけど、こんな事は、はじめて」
「だろうなぁ」
科学者はハァ、と溜息をついた。気象データにも無いのだから、人間の生活データを集めてきたこのアンドロイドにも対処法があるとは思えない。
「......実は、お偉い方はもう地球を出ていったんだ」
「そうなの?」
「この星にはもう未来が無いんだ。妥当な判断だな。......それでも、一般市民を皆置いていってしまったことを、私は許せない。......着いたぞ」
科学者に連れられて、密は研究物の墓場に連れてこられた。病的なまでに白い壁に四方を囲まれた部屋は、いつかの火葬前を思い出して嫌になる。密は心の内にうわぁ、と呟いた。人一人が入れてしまいそうな長方形の箱が、山のように積まれている。
「冷凍ならこれがいいかもしれないな」
科学者は山積みになった箱の、最も手前のものを引っ張り出した。
「これ、なんの研究?」
「コールドスリープだ。この箱は冷却機能を強くしすぎたものだな」
冷やすだけ、ましてや氷を溶かさずに保存するのなら最適だろう。そう言って、科学者はこの日初めてへらりと笑った。
「この箱には人類の希望が詰まっているんだ。小さいがこれは、ノアの箱舟にも等しい。地球を離れた後、我々はこの箱に乗って、新天地を目指す。この星はもうダメだ。国はまだ秘密にしたがっているようだがね、ここは今に人が住める星ではなくなる」
科学者は箱を撫でた。密にはその箱がまるで棺のように見えたのだけれど、あえて口にするような真似はしなかった。この箱もこの部屋のように真っ白で、有り体に言ってしまうのなら、死の匂いがした。
つるりとした表面に、窪んだ穴が一つある。科学者はその穴に手を入れて、取っ手を回すように動かした。ぷしゅう、と音を立てて装置が開く。当然だけれど、中に死体は入っていない。これは棺ではないのだ。だというのに、密は花に埋もれた誉を思い出してしまう。
「ここに入れるんだ」
科学者は一通り密に装置の説明をした。見た目よりもずっと狭い。様々な機械が積まれているからだと説明された。空いた場所に身体を寝かせるのが本来の使い方らしい。中に物を入れると、自動的に冷却が始まるそうだ。本当は人間を限りなく仮死状態に近づけて宇宙に飛ばすためのものなのだけれど、これは失敗作で温度が低すぎたのだという。確かに氷を保つだけならこれ以上に最適なものはなかった。密は頷いた。ここを出たらまず一番に、冷凍金庫に向かおう。そう思った。誉の遺した氷を、密は大切に大切に、冷凍金庫に預けている。
「お互い健闘しようじゃないか。君はその氷を、私は人類を保つために」
「うん」
密は礼を言って科学者と別れた。密は箱を引きずって歩く。人類の希望が託されたという棺は、色々な機械が積まれているからか異常なまでに重かった。
──実は、アリスが入っていたりして。
そんな馬鹿げた考えを持つ自分に笑ってしまいそうになりながら、密は重い重い希望の入った棺と進む。街中でそんなことをしていたら異様に目立つのは当然だ。けれど、誰もが疲れ切っているから、そんな密を見てもなんとも思わないらしい。例にもよって台風はどこかの国を襲い続けていたし、この間はどこかの国が水に沈んだと聞いた。
この箱が、棺になんてなりませんように。密はそう思いながら、肩にかけた縄を持ち直した。
密が失敗作を貰って、造花──花はとてもじゃないけれど、高くて買えなかった──と一緒に氷を入れ終わった頃。とうとう政府は、地球には未来が無い、と発表した。予感していたことではあっても、分かりやすく世界は混乱を極めた。
具体的な例を挙げるとしたら、自殺者が増えた。取り締まりが追いつかないようなペースでみんながみんな首を吊るから、一度政府管理下の人口森林前を歩くと、巨大なミノムシが好きなだけ見られる。自殺者が自殺者を産むのだ。誰だって、こんな悪趣味な光景を見たら絶望するだろう。
新天地を目指す巨大宇宙船、通称ノアにはもちろん人が殺到した。密も一度は搭乗を希望したのだけれど、「アンドロイドが乗るような余裕はない」とあっさり却下されたのだ。人間の勝手で作られておきながら、人間の勝手で切り捨てられる。アンドロイドの研究が禁止されて良かった。密は心からそう思った。自分のような個体が、特に、人に恋をしてしまったような個体が産まれることは、とても苦しい。
数日後、ノアは人類を乗せて旅立った。その中に積まれた棺に、一人一人が入って眠るのだろう。あの科学者は無事だろうか。密は飛び立つ宇宙船を見て、未来を願った。
地球には宇宙船に乗ることのできなかった、少なくはない人間たちが残されていた。みんな社会身分の低いものばかりだ。当然密も残された側に含まれている。
残された人間はしばらくの間細々と生きていたのだけれど、やがて上昇し続ける気温に耐えきれなくなったのだろうか、次第に姿が見えなくなった。身体の構造が干からびてゆく星についていけなくなったのか、あるいは、精神が追いつかなくなったのか。どちらにせよ、死者は増え続けた。
本当は、密だって死んでしまいたいのだ。五千年前からそう思っている。けれど、内蔵された自動安全装置が働くおかげで、機械の身体には一向に死が訪れない。自殺はもちろん、暑さ対策に関しても万全な構造のおかげか、悲しきかな、密は今日も今日とて健康体だった。
初めのうちは毎日を眠って過ごしていた。けれど、やがて日陰がなくなり、まれに炎が上がったりするようになると、密は再び強迫観念じみた心配に悩まされることになる。
──もしも、この装置の中の氷が溶けてしまったら。
考え始めると、もう心配で心配で堪らない。もしもこの機械には耐え切れる温度が決まっていて、その温度を超えてしまったら? そうしたら、美しい誉の言葉を内包した、レモン入りの氷はどうなってしまうのだろう。
悶々と考えているうちに、密は縄に括られた棺を引きずって歩いていた。なるべく寒いところ──もうそんな場所が地球には残されていないのかもしれないけれど──、北に向かおう。そう思ったのだ。
◇
こうして、密は北へ北へと歩いている。ただなんとなく、北に向かえばここよりは気温が低いだろう、といった思いからの行動だった。この場に留まり続けていても、いつかは炎に包まれるだけだ。残念なことに、密は活動さえ停止しないものの、痛覚はきちんと備わっている。炎に包まれるなんてごめんだった。
時間だけは無限にあった。少なくとも地球が終わるその瞬間までは、密は生きていることができるだろう。いや、生きていなければならない。密に課せられた任務は記録行為だ。世界の推移を記録する義務が密にはあった。
そうして、不死の密は今日も、重い機械の箱を引きずって歩いていた。
「眠い......」
日差しが瓦礫ばかりが続く街に降り注ぐ。
もう何時間続けて歩いている? 密には無尽蔵の体力があると言えども、眠気だけはどうにもならなかった。
記憶の保存作業が始まると、意識を保っていることができなくなるのだ。高性能レコーダーのくせに。密は文句を言ってやりたい気持ちだった。大量のデータをあれこれしてフリーズだなんて、何千年前のお話なのだろうか。けれど密に埋め込まれたコンピューターというのが、その何千年前の産物なのだから仕方ない。
密はどこかで横になろうと決めて、日が沈むのを待った。太陽が出ている間に意識を失ってしまうと、突然何かが燃え始めた時なんかに対処のしようがないのだ。眠るのだとしたら、夜になるのを待つ必要がある。
太陽は以前よりもずいぶん大きくなっていた。これは気のせいなんかじゃなく、太陽そのものが赤色巨星としての終わりに近づいていて、物理的に地球の距離が近くなっているせいらしい。西日は昔のように情緒を感じる暇なんて与えてくれなかった。恐ろしく大きな火の玉が落ちていく、という表現が正しいように思われる。
いつか誉と二人で買い物をした帰りに見た夕日なんてどこにも無くなってしまったのだ。二人ともろくに料理ができなかったから、買ってきた食材で作ったご飯はあまり美味しくなかったっけ。思わず感傷に浸ってしまう。隣を歩いていた愛しい人も、共に見た美しい景色も、その両方が失われてしまった。それでも尚、当時から少しも姿を変えずに生きている自分は一体何なのだろう?
巨大な火球がすっかり地平線に沈んだのを見届けて、密は硬い箱の上に横たわった。身体を受け止めてくれる柔らかさも、心地良い暖かさも無かったけれど、この中には誉の言葉が入っている。だから、なかなかどうして悪くない寝心地だと思えた。
◇
「密くん」
──これは、夢だ。分かっている。密は夢の中でさえも棺を引きずって歩いていた。全てを焼く太陽は現実のそれと変わらない。現実と同じように、人間そっくりに、密の頰には汗が伝う。けれどすぐに、これは夢だな、と感づくのだ。
「なに」
密は振り返りもせず返事をした。夢というのは、脳が記憶を整理するときに見せる幻想だ。密の場合は、何千年にも及ぶデータを処理する際に、その残骸で作り出した芸術とも言える。
重い箱の上には誉が優雅に脚を組んで座っている。若々しい姿のまま、誉はにこやかに微笑んでいる。振り返らずとも密には分かるのだ。だって、何度も何度も同じ夢を見てきた。
「密くん」
誉は何度も密を呼びかける。太陽が沈み始める。密は頑なに振り返ることをしなかった。振り返るとどうなるのか、密はよく知っているのだ。けれど、振り返らなければ、この厄介な夢は終わらない。夕日が沈むこともない。初めから負けが決まっている勝負だ。だって密は、目を覚まして歩かなくちゃいけない!
密は思い切って振り返った。夕日で作られた長い影が一緒になって動く。見れば、誉はやはり微笑みを浮かべて箱の上に座っていた。地平線に触れようとする夕日に照らされて、誉の髪は燃えるように赤い。けれど、地面に誉の影は伸びていなかった。誉はポツン、と密の世界より上の場所にいる。
「ひそかくん」
誉の姿がグニャリと歪む。夕日は更に赤く燃える! 密は歯を食いしばって、それを見ていた。誉の長い横髪の先から、ポタリ、と液体が垂れた。溶けているのだ。髪も、目玉も、腕も、何もかもがどろどろに液状化していく。グロテスクだ。目も当てられない。しかし、密は目を逸らすこともできずに、誉が溶けていくのを見ていた。いつもこうだった。夢の中の密は何もできず、誉が溶けて、消えていくのを見つめている。
カラン、と音が鳴った。
誉がすっかり溶けきってしまうと、誉が座っていた場所には、空っぽになったガラスのコップだけが残される。夕日は沈みきり、あの赤さが嘘のように周囲は黒に染まっていく。
密は目を覚ました。
密は一人だった。
ピシャン、と密の頰を雨が打った。一体どれくらい眠っていたのだろうか、普段ならば何もかもを焼くような太陽の日差しで目を覚ますのだけれど、今回は大雨に打たれて密は目を覚ました。嫌な夢を見て飛び起きるような気力もなくて、二度寝をしたのだ。流石に自分の寝汚さに密は驚いてしまう。雨が降るような気配は一切なかったのに、寝て起きたらこの天候とは。余程長く眠っていたのだろう。
空を見上げると、真っ黒な雲が勢いよく流れていた。まずいな、と頬の内側を噛む。この調子では台風が来るのだろう。雨は一度降り始めると、街の全てを飲み込むような濁流を作り出すのだ。そうしていくつもの都市が消えた。
ここまで必死に歩いてきたのに、どこかに流されてしまってはたまらない。密はどこか避難できるような場所はないかとあたりを見回した。
「あ」
少し進んだあたりに、頑丈そうな建物が見えた。赤茶で、高台にポツンと建っている。これまでも倒れずに持ってきたのだ。きっと今回の雨風も凌げるだろう。密は慌てて、けれど箱は決して手放すことなく歩いていった。未だ現存する大きな建物は、これだけ荒廃した世界では珍しい存在だ。
近くで見ると、模様だけなのかもしれないけれど、時代錯誤みたいな煉瓦造りだと気がついた。正面にぽつん、と取り付けられた自動ドアだけが近代的で、アナログチックな見た目と合わさってなんだかちぐはぐな印象を受ける。密が引きずってきた箱と一緒にゲートの前に立つと、優秀な管理システムはまだ機能していたようで、ドアは一人でに開いた。
きょろきょろとあたりを見まわしながら密は入館する。随分広い。それに、温度も外のように暑くはなかった。
入ってすぐに受付があって、ロボットが一体、ちょこんと座っていた。子供くらいの人形だ。全身が白色で、一目見てロボットだと分かるようになっている。笑顔しか用意されていない表情はマスコットキャラクターのような印象だ。事実、受付だけでなくマスコットとしての役割もあったのかもしれない。どちらにせよ、密よりもずっと単純に作られている機械だった。少しだけ羨ましくなる。
つらつらとそんな事を考えていると、感情の読めない黒光りする瞳が密を捉えた。
「ようこそ、フローラ大学図書館へ」
「図書館......」
密がひょい、と奥を見ると、成る程、高い本棚にはこれでもかと本が詰まっている。その高い本棚が、遠くにある向かいの壁一面にずらりと並んでいた。そこから階段のように手前に向かって段を作っている。通路には赤いカーペットが丁寧に敷かれていて、本棚同士の間には座り心地の良さそうなソファーが置かれていた。
「一般の利用希望者は、受付を済ませてからご入館ください」
「はあ」
密がロボットに近づいていくと、ロボットの瞳がきゅう、と細められて、ピコンと音が鳴った。顔認証システムが働いたらしい。
「御影密さんですね。ごゆっくりどうぞ」
抑揚のない歓迎の声と一緒にゲートが開いた。
このご時世、ほとんどの書籍はデジタル化しているから本は貴重だ。図書館というだけでなんだか改まってしまう。紙に印刷された本というものには根強い愛好家がいて、その印刷文化が途絶えることはなかったけれど、以前よりも本はずっと高価だった。
私立の大学図書館というだけあって、設備は非常に美しかった。元々大学の敷地にあったはずなのに、高台にぽつん、と残っていたのは、この煉瓦造りの建物だけだ。本来はこの周囲にも様々な施設があったのだろう。密はそんな過去を思って、寂しくなった。だって、ちゃんと知っている。この聖フローラ学園大学は、誉の母校だ。
そんな考えを巡らせながら館内を散策していると、件の「有栖川誉」の文字が目に飛び込んできたので、密はびっくりした。
成る程、母校というだけあって特集コーナーが作られている。手書きのポップはいつぞやの書店にあったものとよく似ていて、変わらない文化が愛おしかった。丸文字で丁寧に書かれた書評は、多分この本に救われた人が遺したのだろう。
「天才詩人、か」
密は誉の名の隣に書かれた肩書きを復唱してみる。なんだか実感が湧かない。実のところ、密は最後まで誉の言葉の文学的な価値というものが分からなかった。往年には深みを増しただとか、研究の対象にされたりだとか、学者の目から見る誉の言葉は数多くの意味を抱えていたらしい。
けれど、誰より側で誉の言葉を受け止めてきた密には、正直に言おう、全く意味が分からなかった。しかし、誉も密に理解を求めることはしなかった。だって、二人は結局他人だった。
理解というのは想像でしかない。少なくとも、密はそう思っている。感性の供用は不可能だった。密がマシュマロを愛するように、誉は言葉を、ひいては詩を愛しているのであって、その理由を完全に理解し合うことなんてできないのだ。それでも、理解し合うことが大切だというのは、想像で相手を補って、思いやって行動することが、愛と呼ばれるからだろう。
多分、人間がうまくいくためには、そんな許容が必要なのだ。密は誉の詩なんて分からないけれど、一緒にいたいから、ずっと一緒にいた。それだけだ。
多くの人に読まれてきたのだろう、誉の著書はくたびれている。密は読み込まれて柔らかくなった文庫本の表紙を撫でた。ページを捲る。いくつかの詩を読んでみて、密は結局断念した。分からず仕舞いだ。......それでも、大切にしたいと思った。密は誉のことを、分からないなりに好きだった。
ガタガタと高い位置にある窓が揺れた。雨風は酷くなる一方だ。
そういえば氷はどうなっただろう。密は久方ぶりに箱の蓋を開けた。
「......また溶けてる」
密は眉を顰めた。グラスの中の氷は、前よりも小さくなっている。カラン、と鳴って、氷は造花に囲まれていた。
氷を溶かさないために北を目指しているのに。どういう原理だか、密が嫌な夢を見た後は、決まって氷が溶けていた。少しずつ、少しずつ。よく分からないなりに大切にしたいと思っていた誉の言葉が無くなっていくようで、密はやりきれなくなる。機械の故障なのだろうか。ここも、もう暑すぎるのだろうか。
──それとも、誉の言葉が自分から逃げ出したがっているのだろうか。
バァン! と大きな音がした。強風に飛ばされてきた何かが壁にぶつかって粉砕したらしい。今日は、眠らないでおこう。そう思って、密は窓の外に黒く渦巻く雲を見上げた。
一ヶ月、二ヶ月、それ以上かもしれない。密は歩き続けてとうとう海に着いた。これだけの熱によってすっかり干上がっていそうな海だけれど、実際はその逆で、流氷が溶けているからかむしろ海面が上昇している。以前よりもずっと大きくなった、この海を渡らなければ北の果てへは到着しない。
海は密が知る時よりも青いように思われた。ここがまだ濁流に飲まれていない場所だからか、それとも、海を汚すような生き物がみんな地球から出ていったからか。広くどこまでも続くような水平線は、穏やかに揺れていた。この海が荒れ狂っていくつも都市を飲み込んだだなんて、密には到底信じられなかった。
「......箱、浮くかな」
なんて一人呟きながら、引きずってきた箱を波打ち際に近づけてみる。そっと押して半分程を水に浸してみた。浮くような気配は一切なかった。それはそうだろう、いくら頑丈に造られているとはいえ、この箱は精密機械なのだ。言ってしまえば、効果の強力な冷蔵庫である。浮くはずがなかった。
これは困った。密はうろうろと意味もなく歩き回る。密の引きずる箱に合わせて、柔らかな砂浜はざりざりと音を立てた。と言うのも、密は北に向かうことは勿論、海を渡ることにもこだわっているのだ。案の定、これも誉のせいなのだけれど。
◇
「密くん」
記憶の中の誉は、密の先を歩いている。二人は夏の海に来ていた。青い波と白い砂浜が対照的で美しかった。
「海の向こうには何があると思う?」
「何って......」
過去の密は夕日が沈んでいく水平線を見た。海は穏やかに揺れている。オレンジ色の空には、鴎が数羽飛んでいた。
「外国でしょ。海を越えたら、国がある」
「模範的な回答だ」
誉は頷いて笑った。常識的な回答をしたにもかかわらず、なんだか馬鹿にされたような気がして、「じゃあアリスは何があると思うの」と密は尋ねた。
「勿論国があることは知っているよ。ワタシだって大人なんだ」
誉は眩しそうに目を細めて、夕日が沈んでいく海に目を向けた。
「ワタシはね、海の向こうには未知が広がっていると思うんだ。まだ知らない世界が、そこにはある」
空と海が夕日に染まる。水平線の向こう側には、自分の知らない世界が広がっているのだろうか。そんなふうに思いながら、密も目を細めた。
「どうしようもなくなった時、先が見えるような、自分にはない答えが、そこにはあるのではないかと思うんだ」
密くんの故郷も、海の向こうにあるのかもしれないね。誉はそう笑った。
そんな何気ないやり取りが、長い時を経て、密に作用する。
密は是が非でも海を越えなければならない、と信じて疑わず、何とか海を越えたその先へ向かう方法を探そうと、海辺を歩いていた。
「あれ......」
そんな密に神が微笑んだのだろうか。密の前に大きな門を構えた地下通路が現れた。
◇
地下通路の正体は物資移動用の海底トンネルだった。幸い設備も無事だったから、密はその中を通っていくことにする。科学技術ばかりが進歩して肝心の利用する側がいないんじゃ、悲しくなるだけだな、と密は思う。自分だってこのトンネルと変わらないのだ。人の為に生まれたのに、肝心の人は消えてしまった。それってなんだか、とっても虚しい。
ベルトコンベアは荷物を乗せたまま停止していた。ここで働いていた人はみんな、慌ただしく地球を出発したのだろう。かつて栄えたこの貿易場所は、地下に存在するからか少しだけ温度が低いように思えた。
壁に埋め込まれた液晶パネルに触れると、再稼働、という赤い文字が表示された。少し迷ってから密がその文字を選択すると、コンベアはがこん、という音を出して動き始めた。ゆっくりした動きだったけれど、長々と海の中を歩くよりはよっぽど速い。密は引きずってきた箱をなんとかコンベアに乗せて、自身も一緒に運ばれていくことにした。
トンネルに所々作られた窓には、海の中が映っている。よく見れば、沢山の魚たちが優雅に泳いでいた。多くの陸地を飲み込んだ海は、飲み込んだ分だけの活力を得たように生き生きとしている。
立場が逆になったみたいだ。水族館に行った時、密は誉に、本物の海が好きだ、と言ったことがある。
見よ! 人類が消えて海はこんなにも美しく栄えている。クジラがトンネルの窓のすぐ近くをゆったりと進んでいった。
少し眠ろう、と思った。密は硬い箱の上に横たわって目を閉じる。目が覚めたら、海を越えているだろうか。
◇
「密くん」
夢だ。密はその声を聞いた瞬間に理解する。これは、夢だ。それも、今までにないタイプのやつだ。
夢の中で、誉は相変わらず箱の上に脚を組んで座っている。これまでと違うのは、密は箱を引きずっておらず、コンベアの上で運ばれている、というところだった。数メートルおきに設置されたトンネルの窓には、クジラが映っている。
「綺麗だね」
誉はニコリと微笑んだ。密は、うん、とだけ頷く。どんな風に振舞えばいいのか、正直に言って、分からなかった。だって、これは、まるでアリスが生きてるみたいじゃないか!
コンベアの稼働する機械音が、トンネルにはよく響いた。これは夢だ、自分の生み出した妄想だ。分かっているのに、密は緊張してしまって、伝えたい言葉一つも伝えられない。夢の中でくらい、横暴でいたい。だというのに、密はかぐや姫ではないし、現実を生きると決めてしまった。文句の一つも言えなかった。弱音なんてもっとだ。はやく死にたいだなんて、死人に向かってどうして言える?
「ワタシの言葉、大切にしてね」
誉は密と目を合わせて、再びニコリと笑った。密が瞬きをすると、カラン、と音が鳴って、そこには氷の入ったグラスだけが遺される。
密は目を覚ました。
密は一人だった。
コンベアに乗って海を越えると、今までに比べれば随分気温が下がったように感じた。密はラッキーだった、と思いながら地下を後にする。久々に目にする太陽は眩しかったけれど、幾分か柔らかいように思えた。
ここはどこの国なのだろうか。密は太陽の位置で北を探りながら、箱を引きずって歩いていく。海沿いの建造物は壊れているものが多かったのに対して、内陸側の多くの建物は綺麗な姿のままだった。
そんな中に、一箇所だけ焼け焦げた場所を見つけて、密は足を止めた。ガシャン、と音を立てて焦げた柱が落ちた。焦げ臭い。それにまだ、ぷすぷすと煙が出ている所もある。火災が起きたのは随分最近らしい。
火の気もないような場所なのに、どうしてここだけは燃えたのだろう。そんな興味から、密は黒い建物を覗き込む。
すると、影が一つ、ふらふらと動いていた。
密は一瞬、その影が何なのか判断しかねて、目を凝らした。丁度自分と同じくらいの大きさで、手足のようなものがあって、焦げた頭部には動く目玉が......
人だ。
生きている!
密は驚愕した。この環境下で、まだ生きているような人間がいるとは思わなかった。ろくな食料なんてなかったのだろう、皮膚は乾燥して、ほとんど枯れ木のようにやせ細っていた。しかし今確かに、密の目の前で、この人間は歩いていた。そして、バタリ、と倒れた。
「あの、大丈夫ですか」
密は近づいて行って声をかけた。男なんだか女なんだか、もはや人なのかさえも怪しいその生き物は生気の無い目だけをギョロリと動かして密を見た。やがて、たった一言、聞き取ることも難しいような乾燥した声で、
「てんしさま」
と言った。
密は、オレは天使なんかじゃない、と言いかけてやめた。真実よりも優しい嘘が存在するとよく知っていたからだ。この人はきっと、もうすぐ死ぬだろう。その前に、少しでも良いから何か希望を与えてあげられたのなら、それだけで密は嬉しかった。
一見無駄に生きながらえてしまったようなアンドロイドである自分が、誰かのように、誰かに言葉で希望を与えることができたのなら。密はにこやかに微笑んだ。天使の役なら得意なのだ。
「ここまでよく頑張ったな」
密はすっと手を伸ばした。触れた相手の髪はカサカサと音を立てた。きっと火事に巻き込まれたのだろう。焼け焦げて炭化している。密はギュッと喉を締められたような気分だった。人間がこんな環境でここまで生きてくるだなんて、相当の道を歩んできたに違いない。一人でここまで生きてきた、なんてことはないだろうけれど、焼け焦げたこの場所を、この人は一人でふらふら歩いていた。この人の隣には、本来同じく必死に生きてきた仲間がいるはずなのに。飢えもせず、この人はよくここまで生きてきた。そこまで考えて、密ははたと気がつく。
──この世界に食糧なんて残されていない。
浮かんだ想像は、とても残酷なものだった。もしも密が人間で、誉と共にこの時代を生きていたとして。動かなくなった誉が腐ってしまう前に、密は、生きるために、柔らかな腕を──
「みずが」
ぼんやりと密を見ていたその人は、ふと呟いた。その言葉で、密は思考の渦から帰ってくる。
「みずが、のみたいです。てんしさま」
密はギクリとした。この人は最後に水が飲みたいのだ。密は氷を、つまりは水を持っている。それでも、この人に与えたら、きっと密がここまで必死に守ってきたその結晶は無くなってしまうだろう。ただでさえ、ここに来るまでの間にずいぶん減ってしまった氷だ。五千年間に渡る密の愛を、執着を、今にも死にゆく人間に渡すことができるのか。密の頰につうっと汗が伝った。
──ワタシの言葉、大切にしてね。
言われなくとも分かっている。大切に、大切に、密は誉の言葉を守り続けてきたのだ。
その人の意識は朦朧としているようで、もうあと一瞬で魂が抜け落ちてしまいそうだった。水を、氷を、与えようと与えまいと、どうせ死んでしまうのだ。だったら、ここまで守ってきた誉の言葉を、見ず知らずの人に与えるだなんて......
──アリスの本、オレには分からなかったけれど、この本はたくさんの人を助けたんだろうな。
密はぐっと歯を噛んだ。大切にするって、何だろう。アリスの言葉は何のためにある? オレはどうして歩いているんだろう。オレは何がしたいのだろう?
オレは、
「ああ。最後に、命の水を」
密は重い棺のハンドルに手を伸ばした。出てきた透明なガラスのコップは、紛れもなくあの日のものだ。底に沈んだレモンが鮮やかに輝いていた。密はコップをひっくり返して、コンコンと底を叩く。カラン、と涼しい音を立てて氷が出てきた。
レモン入りの宝石は密の手に収まっている。日差しに照らされて、ぴかぴか光る水を滴らせて、誉の言葉はそこにあった。密は引き留めようとする自身を殺して、思い切って、エイ、と死にかけの人の口に氷を押し込んだ。氷が溶けていく。誉の言葉が溶けていく。執着が、溶けて、消えていく。
「おいしい」
その人は最後に幸せそうに微笑んだ。ありがとうございます、そう言い残して、かっくりと首を落とした。亡くなったようだった。
これで、良かったのだ。密はそう思う。誉の言葉は、こうでなくちゃいけない。いつだって誰かを無意識のうちに救うのだ。密が救われたように、見ず知らずの誰かを。だからこそ、文明が滅びる最後の最後まで誉の言葉は受け入れられたのだ。密が誉を好きだったように、世界もまた誉のことが好きだった。誉だって世界を愛していた。だから、これで良い。
五千年を見ず知らずの他人に使い果たして、密はしかし満足だった。これで北を目指す理由だって無くなったのだけれど、それでも密は、歩き続けようと思った。重い箱だってもう持ち歩く必要が無いのだ。随分身軽になったじゃないか。密は唯一ガラスのコップを手に持って、足取り軽く歩き始めた。少しずつ、気温は下がっているように思えた。目指す場所はポラリスが教えてくれる。
密は歩いた。北に行けば、何かが起こる気がした。
◇
トンネルを抜けると雪国であった。
そんな有名な書き出しがあるのだ、といつか誉が語っていた。密は目を見張る。まさにこの状況じゃないか。
宝石のように輝く、そこら中に転がっているこれは何だろう? 真っ白な雪の上に転がる宝石を通って、強い日差しはエメラルドグリーンになった。天然のレフ板に、柔らかくエメラルドの光が反射して夢みたいに飽和する。
宝石の正体が巨大な氷だと分かったのは、触れてみてその冷たさに気がついてからだった。密はあたりを見回した。この場所で吐く息は白く、四方は空と同じ色をした氷に閉ざされていた。
耳を澄ませば、誉の言葉がそこら中から聞こえるようだった。ちゃんとバランスよく食事をしなきゃダメだよ、とか、人とは仲良くするんだよ、だとか。何より、眠りすぎには気をつけたまえ。そんな、思わず分かってる、なんて笑ってしまいそうな言葉が、四方の氷から聴こえてくる。
──いや、己の内から聴こえてくるのだ。初めから知っていた。誉の言葉は他でもない、密自身が受け取って来たのだから。
「なんだ」
密はへなへなと力が抜けていくような思いだった。冷ややかな宝石の上に腰掛ける。何が、「氷に言葉を込める」だろうか。初めからみんな、密自身に込められだ言葉だ。
レモンの入った氷は、密自身だった。簡単な話じゃないか。だって、一体誰が氷に言葉を閉じ込めることができるのだろう! そんなことに気がつかないで、五千年間も、ただのレモン入りの氷に執着していた。馬鹿みたいだ。
馬鹿みたいで、馬鹿みたいだから、涙が出てきた。密は笑った。誉はみんなお見通しだったのだろうか。こんなに綺麗な呪いってないじゃないか。密の心の中には誉が今でも生き続けていて、初恋を閉じ込めた結晶みたいに、輝き続けていた。
未来が無いだなんて、そんなはずは無かった。刹那の時を共にして、永遠の恋をしたのだ。
なんだか酷く眠かった。ピシ、と密の身体の下で音がする。透明な薄氷に、ヒビが入ったからに他ならなかった。密に備わった安全装置は作動しなかった。密自身が満足したからかもしれない。
ドボン、と密は湖に落ちる。小さな気泡が輝きながら昇っていく。遠くなる薄く張った氷が、ガラスのように見えた。今に蜂蜜漬けのレモンが入れられるんじゃないか。そんな風に考えて、密は思わず笑ってしまった。
──そうしたら、アリスが飲んでくれるんだ。
それはとても幸せなことに思えた。やっと誉と再会できる。そんな気がして、密は目を閉じた。きっと誉は、「おいしい」と微笑んでくれるのだ。
「博士!」
「どうした、そんな大声を出して。私はまだ、そんな年寄りじゃないぞ」
研究者は眉を顰めた。こんな表情も仕方がない、彼にはやらなければならないことが山ほどあった。地球が二度目の氷河期を迎えて数百年。人類は失った地球を取り戻す為、流れ着いた遠い遠い小さな星で研究を続けていた。
若い助手はすみません、と早口に言って、しかしすぐに「いえ、それどころじゃありません、大発見です!」と叫んだ。
「無人探査機があったでしょう。表面の氷を削って、内側を調べてくれるやつです。それが、見てください!」
助手はタブレットの画面を研究者の目の前にまで持って行った。研究者は神経質そうに眼鏡を押し上げて、目を凝らして画面を見た。凍った水の中に、なにか人影のような──
「これって、以前博士が仰っていた、記録用の......」
「お互い、成功したみたいだな」
研究者はそう呟いた。その表情を見て、助手は腰を抜かしそうになる。
だって、彼が笑うところなんて、助手は初めて見たのだ。